老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。
――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。
都心に向かう鎌倉街道は空いていた。
ワンボックスを順調に走らせながら、達也は見納めのようにのどかな風景を眺める。朝早く郊外に向かい、一仕事終えてから、帰宅する途中だった。
民家に交じり、時折、田畑が広がる。その向こうに連なる青い山並みは、丹沢(たんざわ)山地だ。道路端に火の見櫓が残っているのを発見し、達也は自分が生まれた茨城の田舎町を思い出した。
でも、ここも東京なんだよな……。
東京も県境までくると、車窓の風景は、故郷の街並みとたいして変わらない。
車内にさし込む日差しに眼を射られそうになり、達也はルームミラーに取り付けたサンバイザーを下ろした。九月になっても相変わらず残暑が厳しいが、日が暮れるのだけは随分と早くなった。まだ四時を過ぎたばかりなのに、西日がきつい。
春から本格的に開店準備を始めて、そろそろ半年が経とうとしている。けれど、やるべきことは、まだまだ山積みだ。
無意識のうちに深く呼吸すると、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
この日、達也は朝一で果物農家を訪ねてきた。桜山ホテル時代にアフタヌーンティーチームでコンビを組んでいたセイボリー担当のシェフ、須藤秀夫から紹介してもらった小規模農家だ。
車内には、もいだばかりの林檎の芳香が満ちている。
現在、日本では、生食用の糖度の高い果物を生産し、〝〇〇狩り〟をメインとした観光農園を経営する果物農家が圧倒的に多い。以前、ブノワ・ゴーランも指摘していたが、こうした果物は、実のところ加工にはあまり向かない。新鮮な実をそのまま食べるのが、一番美味しい。
しかし最近では、製菓加工に適した酸味や渋味の強い果物を、敢えて昔ながらの方法で作り続けるこだわりのある農家も少しずつ増えてきた。
今回、達也が訪れたのは、東京と神奈川の境で酸味の強い紅玉系の林檎を生産している果物農家だった。九月から収穫できる小振りの林檎はそのままだと酸味が強すぎるが、コンポートやカラメリゼにすることで極上の味わいに変身するという。
その味と質については、かつて古典菓子をメインとしたパティスリーのオーナーシェフだった秀夫のお墨付きだ。
後ろの座席には、林檎を山盛りにした段ボール箱が積まれている。
北海道、栃木、群馬、愛媛、宮崎、地元の茨城と、これまでも全国の農家を回ってきたが、今後、達也はこだわりの強い小さな農家とも、業者を介さずに直接やりとりをしようと考えていた。
やりたいことが増えるほど、やるべきことも増えていく。
正直、身体がいくつあっても足りない。
店舗として使用する自宅の一階には、目下、内装業者が入っているが、自分が不在のときは涼音が立ち合いをしていた。
内装のイメージについては、何度も話し合ってきたし、涼音からもたくさんのアイデアが出た。一緒に店を作るに当たり、涼音以上に信頼の置けるパートナーはいない。
年明けのプレオープンに向け、達也は完全予約制でホールケーキの販売を始めようと準備を進めている。併せて涼音は、桜山ホテルで広報を担当していた経験と人脈を生かし、ホームページの開設や、メディア向けのピーアール活動に尽力していた。
パティスリーの開店業務に関しては、自分たちの足並みは完全にそろっている。
だけど――。
ふと、達也の唇から、軽い溜め息が漏れる。
少し前から、急に涼音が結婚後の改姓について悩み始めた。率直に言えば、「なにを今更」という思いが達也にはある。
桜山ホテルを退職した直後は、自ら積極的に婚姻手続きの準備をしていたはずだ。
ところが涼音曰く、いざ婚姻届を書く段になって、「婚姻後の夫婦の氏」を強制的に選ばなくてはならないことに疑問を覚えたのだという。
〝夫婦同姓を法律で義務付けているのが、世界で日本だけだって、達也さん知ってた?〟
思い詰めた表情で尋ねられ、達也は一瞬、返す言葉を失った。
最初は、「遠山姓」を残さなくてはいけない、なにかの事情が出てきたのかと考えた。それならきちんと話を聞こうと耳を傾けたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
婿養子になって欲しいのか問いかけたところ、大きく否定された。
それでは、一体、なんなのだ。
ステアリングを切りながら、達也は眉間に微かなしわを寄せる。
涼音の言わんとすることが、未だによく分からない。
店用の口座を開くとき、屋号を「飛鳥井」にすることに、涼音はまったく反対しなかった。そこにわだかまりが隠されていたとは到底思えない。
自分の姓に愛着があるということなら、通称として「遠山涼音」を名乗り続ければいいのではないだろうか。結婚後も旧姓の名刺を持って活躍している女性は、達也の周辺にもたくさんいる。
夫婦同姓を法律で縛っているのが、世界で日本だけだという事実は、達也もこれまで知らなかった。そのことに関しては、さすがに遅れているのではないかと感じる。
遺憾は遺憾だが、それが法律である以上、現段階ではどうにもできない。遵守(じゅんしゅ)しなければ、結局、日本では結婚できないということになる。
涼音がどうしても改姓したくないというのであれば、自分が改姓するしかないだろう。郷里の父や親戚たちは猛反対するだろうが、屋号で「飛鳥井」を残すのだから、そういう選択肢もなくはないと、達也自身は考えていた。