その彼が、今、目の前にいて、連れの女性に汗をぬぐわれている。妹と他愛のない話をしながらも、目の前の2人を盗み見る。話しかけてみたいが、彼だという確証もない。

「次は吉祥寺」と車内アナウンスが流れると、彼は心なしか窓のほうを向いたように感じた。吉祥寺にはよく遊びに来ていたので、もしかしたら「ここは来たことがあったな」と思い出したのだろうか。

そして国分寺駅に到着し、2人は立ち上がった。ああ、ここで降りるのか。私はその姿から目をそらすことができなかった。そのときだ。ドアに向かっていた彼がふいに横を向き、右手をグーパーグーパーと開いたり閉じたりしている。

Sだ。私は確信した。それはかつてつき合っていた頃、社内のみんなにわからないように2人で決めた、「元気?」の合図だったから。

彼に間違いない。追いかけたい……でも女性がいる。たぶん妹にも止められるだろう。

そうこうするうちにドアが閉まった。2人は人ごみに消え、その姿を探すすべはもうない。きっと私たちはこういう運命なのだ。この日から何度も中央線に乗り、国分寺駅を通り過ぎたが、二度とSの姿を見ることはなかった。

もし戻れるのだとしたら、青春時代のSに会ってみたい。そして右手の人差し指を確認するだろう。指の先端にあった小さなほくろは今もあるだろうか。

一緒にいた女性との関係を聞くのはやめておこう。私も結婚し家庭を持っているが、初めて恋した彼に、ひとときでも愛されていたという思いを、いつまでも持ち続けていたい。

 


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