キントウホウに話を戻す。

すでに憲法第14条で基本的人権として男女平等をうたっていたものの、日本では国際条約を批准するにあたり、法を整備する必要があった。

民間の職場における男女平等を定めた法律は、賃金について女性差別禁止を定めていた労働基準法第4条以外にはなかったので、「はい、平等でいけるよう努力します」という法律を新たにつくった。

「差別しないよう、がんばります」だった。それが「差別は禁止、差別したら罰金だ」とされるまでに、10年以上かかる。

我々の世代はキントウホウに呪われている。そしていまだつづく、キントウホウの呪縛──この話は次回以降に。

私の最初の職場は都心にあった。千代田線を我孫子から日比谷まで乗って、毎朝9時までに、出社する。ビルのワンフロアに、50名くらいが一緒に仕事をしていたが、私のチームのメンバーは30、40代中心の、10名ほどだった。仲がよく、みなクルマが好きで、はりきって仕事をしていた。時はバブルまっさかり、平成がはじまる前年のことである。

入社直後、当時の部長に六本木の高級焼き肉店へ連れて行ってもらったことがあった。

六本木は、卒業旅行で訪れたNYのタイムズスクエアに似ていた。ネオン煌めく路地の奥からは24丁目バンドが聴こえてきそうだった。このあとも、まさかこの街と長いつき合いになろうとは……神のみぞ知る。私はまだまだぼうっとしたジャズ学生の気分を引きずっていた。そういえばこのあいだ、焼き肉部長に再会したら、「ミルちゃんは初出社の日にGパンで来たよね」と言われた。

私は損保会社の自動車保険部で、「チェッカー」という係になった。保険の申込書が正しく記載されているか、内容に矛盾はないか、保険料の金額に間違いはないか、たしかめるのである。私の前任者の女性は赤ちゃんが生まれるのでその仕事を私に引き継ぐことになった。女性は蕪木(かぶらぎ)さんと言って職場では「カブちゃん」と呼ばれ、みんなに愛されていた。

何も考えずに大学を出て社会に出て、最初に入ったのがあの会社で私に最初に仕事を教えてくれたのがカブちゃんでなかったら、私は完全に社会からおちこぼれていたと思う。
もともとのろまでどんくさく、計算も苦手な私は10円が合わずよく残されたが、カブちゃんはどこまでもていねいに、ほがらかに、私に付き合ってくれた。

「ファイリング」もチェッカーの大事な仕事で、保険申込書の控えが溜まるとファイルして棚に並べる。

一日じゅうファイリングする日もあった。