絵:石黒亜矢子
本日から、詩人の伊藤比呂美さんが『婦人公論』で連載している「ショローの女」の配信が始まります。夫が亡くなり、娘たちも独立、そうして伊藤さんは20年暮らしたアメリカから日本に戻ってきました。早稲田大学で教鞭も取る伊藤さんですが、コロナの影響で今は熊本の自宅で過ごす日々。移動できない生活のなか、考えるのはアメリカに残してきた愛犬ニコのこと―― 

クレイマーがアレルギー体質で、からだをぼりぼり掻くのである。耳も耳だれでまっくろになるのである。それで獣医のタカタ先生のところへしょっちゅう連れて行く。それでしょっちゅう考えている、こういう生活ならニコがいたってできる、と。

「ショローの女」を始めてから、ニコの名前は一度も出していない。『たそがれてゆく子さん』(連載時は「たそがれ・かはたれ」だった)のときは何度も出した。カリフォルニアに住んでいたとき、あたしには犬が二匹いたのである。

最年長で最古参がパピヨンのニコだった。それからクレイマーが加わり、クレイマーの親友犬のフィンが毎日遊びに来て、二階に住むサラ子たちがパグの仔犬を飼い始め、そのパグも少しずついっしょに行動しはじめた。ニコは「にゃおんっっ」みたいな声を出して歯をむいて威嚇しつつ、他の犬たちには見向きもしないで、あたしの部屋であたしにべったりくっついて暮らしていたのだった。

日本に帰ることが決まった時、いろんな方法を考えた。「ニコはこのままうちで世話できるが、クレイマーは無理だから日本に連れて行って」とサラ子に言われた。「そうやってお母さんはいつもいろんな人にいろんなものを預けて」とサラ子の肩を持つ長女のカノコからも末っ子のトメからも言われた。う、その中には自分たちのことも入っているなと感じるから、ぐうの音も出なかった。だから必死で、連れ帰ることを考えた(そして実行した)。

二匹連れて帰るのは無謀すぎるとあたしですら考えた。東京に住むことも考えた。たまたま友人が犬OKのマンションを経営しているから、そこに入ろう、空き室はあるかとまで考えたが、それではあたしはただ家と大学を行き来するだけになり、クレイマーは一日のほとんどをマンションの部屋で暮らすことになる。

それで熊本に帰ることにした。一年目は犬を飼っている友人が預かってくれた。二年目はカマダ愛犬教室に預けるようになった。友人よりも気兼ねなく預けられて(安くないお金を払うから)自由が手に入った。そんな感じに東京−熊本を行き来していたのだった。再会するたびにクレイマーが喜んだ。それを見るのも楽しかった。そしてそういう生活の中でもやっぱり考えていた。あと少しだ、もしかしたら途中で連れてくることだってできるかも、と。あの老いていく小さい体を、あたしが見つめていてやることができる。カマダ先生には、もしかしたらパピヨンも連れてくるかもしれなくて……なんて話すらした。