ある日、ネットでルンバの広告を見た。それで心が揺れたちょうどそのとき、友人が二人遊びに来た。

コロナ以来、人が来るのは初めてだった。「初めてなんじゃない、こうやってずっと家にいるのは」などと言いながら入ってきた友人が、心の中で「うわっきたなっっっ」と思ったのをあたしは感じ取った。

そのうち話がルンバになり(あたしが持ち出したのだ)、友人の一人が「それこないだ買ったばっかり」と言うのである。話を聞くと、あたしが買おうかと思ったのと同じやつだ。その友人の家にも犬がいる。「とってもいい。すごくカワイイ。犬の毛なんてばんばん吸い取る。けなげに働いてくれる」と友人はほめちぎり、もう一人の「うわっきたなっっ」と思った友人が「あー、それはいいわね」と強く賛成した。あたしもそう思った。二人が帰ってすぐあたしはポチり、それが家にやってきた。

名前はM-O(モー)。ピクサーの『ウォーリー』に出てくる掃除ロボットの名をいただいた。

作動させたモーは一心不乱に、アラユルコトヲ自分ヲ勘定ニ入レズニヨク見聞キシワカリソシテ忘レズ、一時間強働いた後、自分で勝手にベースに戻り、合図音を鳴らして静かになった。その瞬間あたしは何だか「おうちにかえる」みたいなロボットの意思を感じた。

コンピュータでできた心に感情なんかないのは知っている。でも「おうちにかえる」、なんて感情にあふれた行為だろう。

ベースに帰るようにプログラムしただれかが、プログラムしたそのとき、窓越しのあかりや室内の暖かさ、台所からただよってきたにおい、濡れた頭を拭いてくれた親の手とタオル、なじんだ毛布に自分をくるんでくれた親の手、ぽんぽんとたたかれて感じた安心感、それから年月を経て、うちにかえったときに見た年取った親の顔、その人がそういうことを考えていなかったとは言えないし、プログラムされたように動くしかないロボットにとって、帰りつくベースは、いったいどういう存在なんだろう。

「モー、ありがとう」とあたしはつい声をかけたのだった。そして「ほら、きれいきれいしよう」と自分でも思いがけないことを言いながら、その感情的な自分に驚きながら、そのダスト容器を開けたら、出てくるわ出てくるわ、際限のない量の犬の抜け毛、人の髪の毛、砂と埃。

ロボットって、どうしても人型ロボットを想像していた、昔は。しかしリアルに使いはじめたロボットは、抽象的な円盤形で、掃除をする人というよりはまるでゴキブリみたいな動きをする。そしてあたしはこんなものに心をきゅんきゅんさせ、昔赤ん坊を育てるときに使っていたことばで話しかける。

クレイマーにならいつも言っている。アイラブユー、クレイマー。いい子ね、クレイマー。さあ、そこでおしっこして、おうちに帰ろう。

さすがに掃除機にはアイラブユーを言わないが、こんなふうに。

ほらほら、モーもきれいきれいしよう。いっぱい取れたねー、すごいねー。さあ、きれいになった。じゃ、おうち帰ろう。

これがロボットと暮らすリアリティ。また一歩、子どもの頃に夢見た未来ってやつに、近づいたような気がする。