絵:石黒亜矢子
詩人の伊藤比呂美さんが『婦人公論』で連載している「ショローの女」。夫が亡くなり、娘たちも独立、そうして伊藤さんは20年暮らしたアメリカから日本に戻ってきました。NHKのラジオ番組に月に一度ゲスト出演している伊藤さん。収録の規制緩和で久しぶりに熊本から東京まで、飛行機で向かうことになりましたが――

お盆の頃、5ヵ月半ぶりに東京に行ったんだが、なんと空港への道を忘れていた……。

いや、忘れたというよりこういうことだ。ここ2年間、毎週、朝のラッシュにイライラしながら熊本空港に通った。いろいろ試してみるうちに、とうとう最速ルートを見つけた。信号の少ない、右折車にもひっかからない神ルート。ところが5ヵ月半ぶりに空港に行こうと思ったとき、そのルートのことなんかすっかり忘れて、空港行きのバスが普通に通る正規ルートを通ってしまった。そして正規ルートは混んでいて、あたしは久しぶりにイライラしたのだった。

空港の駐車場は混んでいて入れないことがあるから、手前にいくつもある私設の駐車場に停めていた。

このたびもそこに車を乗り入れると、まったくがらんとして人気もなかった。

受付で呼ばわると、あたし世代の男が二人出てきた。「コロナでどうでしたか」と訊くと、「大変でしたよ、一時は閉めてたときもあったくらい」と言った。

あるときそこの若いスタッフに「東京でどんなお仕事されてるんですか」と話しかけられ、「大学で文学を教えてるんですよ」と答えると、「ぜんぜんそんなふうに見えませんね、ミュージシャンかと思いました」と言われて、ふふふ、ちょっとうれしくなり、そんなこんなでいろんな話をするようになった。ずいぶん話したから、その人の家の間取りや奥さんのことや若いときの留学経験や飼っている犬のことも知っている。ところがその人本人の名前は聞いてなかった。

それで「あの若い方はどうなさってますか」と聞くと、空港まで連れていってくれた駐車場の人は言った。

「やめてもらいました。何人もいたけど、みんなバラバラになっちゃいましたよ」