私はボスを観察していた。たとえばボスがものすごい勢いでおいなりさんを食べているときは心配になった。ボスは1リットル牛乳を飲む速度も速かったが、食べるのも速かった。デスクのそばに置かれているリステリンのボトルの中身が、ぐんぐん減っているのも気になった。まさか飲んではいまい。たとえそれで胸やけを起こしたところで、ボスは決して弱音を吐かないだろう。

「だいじょうぶですか?」

そんなふうにひと声かけることさえ許されない雰囲気が、あの頃のボスにはあった。

話したいと思っても話せない、思ったことを口にできない、それが当たり前だった。

編集部は毎月の雑誌づくりに大わらわだった。

そこには、毎日いろんな人がやってきた。

アーティストも校正者も、夜食の出前の人も、来た。

私のところへは、レコード会社や映画会社、劇団などの宣伝担当の人が、作品の売り込みにたくさんやってきた。私が情報紹介ページの担当になったからだ。

担当になってしばらくは、私ではなく前任者やさらにその前の担当宛ての、映画の試写会やコンサートの招待状がしょっちゅう届いた。そうしたハガキが届くたび、
「いったいどんな人だったのだろう?」
と、表書きにある彼らの名前をしげしげと眺めた。そして、この人はなんで編集部をやめたのかなあ、こんなに楽しい仕事なのに……と思った。

少しあとで知ったことだが、その方々は「独立」をして、一人で編集する人、あるいは一人で書く人、になっていた。

一人で本の仕事をする人もいるのだなあ……。そういう生き方があるということに、私はピンとこなかった。まさか20年後に自分がそうなっているとは思いもしない。そんな自分はいっさい想像できなかった。私にはボスがいて、先輩や同僚たちがいて、彼らと一緒につくる一冊しか、ありえなかった。

私は編集の仕事を、いたく気に入っていた。

以前の回でもふれたがボスの雑誌は文芸誌だったので、扱う文字の量が多かった。

小説の原稿一回分が、だいたい400字詰めの原稿用紙で25~30枚くらい。アーティストのロングインタビュー原稿などは、30~50枚くらいあった。

原稿が手元にくると、それらにタイトル、見出し、リード(紹介文)などを書き、写真にキャプション(短い説明文)やキャッチコピーを付けるのは編集者の仕事。私はそれらが好きだった。こればっかりは気質としかいいようがない。書くのが気持ちいい、やり直しになってもちっとも苦にならない、自分で書いたものを何度も読み返してはひとりひそかに悦に入る。いまにして思えば、兆候は仕事を始めた直後から、私にはあった。

編集部に入ってまもない頃、ひとつの記事につき、見出し(案)を100個書け、と先輩に教えられた。

大学のスウィングジャズ研究会でも、ソロをもらったら1000回吹け、と教えられてきた私は、ああ、やっぱりここでもそうなのか……と、道を究めることの果てしなさを思った。