ここで80年代半ばへ、いったん時間を巻き戻す。

幼子を抱えながら、姑のいじめ、夫の浮気に耐えていた20代のシホさんは、一時期ひどく精神を病んだ。

「家の雨戸をぜんぶ閉めて、部屋を真っ暗にしていました。それに、鏡を見るのが怖かった。鏡の向こうから義母が見てる……とか言っちゃって。完全に病気でしたね。見かねた私の母が、もう連れて帰りますと。相当おかしかったのでしょう。このままだとこの子は死ぬ、と思ったんじゃないかな。で、母に連れ戻された私に、実家にいた妹が、『お姉ちゃん、首に〈さるのこしかけ〉ができてるよ』って言うじゃない……。首にコブができていたの、ほんとにボコッと。病院へ行くと、医者は当然ガンを疑うよね。もう怖くて、怖くて……」

私、子どもを残して死ぬんだ――そう思い込んだシホさんの身体は、ところがどこも悪くなかった。首に表出したデキモノは、〈もうムリするな〉のサインにすぎなかったと思われる。

胃腸科も婦人科もさんざんまわって、あと診るところないですよ、と最後にまわされたのが心療内科だった。

「心療内科? 心の内科ってなに? と。当時まだめずらしかったのですね、カウンセリングみたいなところは。診察室に入ったら、ラフにポロシャツを着た先生が、やあやあ! って元気に迎えてくれて。で、先生が『ぼくネ、カナダにいたんだけど。カナダってさ、トナカイや鹿がいっぱいいるんだよ~』って話し始めた瞬間に、私、ダーッと泣きだしてしまった。気がつくと、それから2時間ずっと泣いていた……」

心が解き放たれた瞬間だった。それまでギューッと縮こまっていた、心が。

「じつはこういうわけで(帰れない)……、と夫に電話で報告すると、迷惑だと怒鳴られた。まったく子どもを置いて何をしているんだって。それに対してあの時の私ときたら、『ほんとうに悪いことをしました』と実家からお詫びの手紙を書いて夫へ送ったという。もう、バカバカバカ!」

帰らなくていいと親に止められるが、そもそも親から離れたくて結婚しているシホさん、実家にも長くはいられなかった。そしていったんは夫のもとへ戻る。

従順だった妻が初めて家出をしたというのに、夫はちっとも懲りていなかった。むしろ事態は悪化した。夫が子どもにあたるようになったのだ。

「子どもって、1万円札を食べる山羊みたいだな」と言う夫。

子どもを可愛がるのはお客さんが来たときだけ。お客が帰ると別人に。

そんな夫のいる〈家〉という空間は、息苦しかった。それでも子どもたちの前で父親の悪口を一度も言うことなく、ひたすら日々の家事と育児に明け暮れていたシホさんに、やがて転機が訪れる。

「ビジネスのきっかけ。それ、ちょうどバブルの頃ですよ」
つづく