イラスト:マルー
阿川佐和子さんが『婦人公論』で好評連載中のエッセイ「見上げれば三日月」。長らくお茶の間の中心にあったテレビですが、近ごろはその存在感にも変化がーー。一抹のさみしさを感じる阿川さんの胸に去来するのは、黄金期のテレビで流れていた数々のCMです。

テレビの長寿番組が次々に姿を消し、盤石と思われたベテラン司会者(私のことではない)がどんどんクビになると聞く。その理由はさまざま噂されつつも、コロナの影響が皆無とは言い切れないだろう。いや、実はコロナ騒動が起きる以前から、スポンサーたる民間企業の間に、「はたしてテレビ番組に投資して、どれほどの費用対効果が期待できるか」と危惧する空気はすでにあったと思われる。その危惧を「決行」に移行させる発火点となったのが、コロナではあるまいか。

民放テレビは企業から広告料をいただいて、そのお金を使って番組を制作する仕組みになっている。つまりスポンサーなくして番組を作ることはほとんど不可能だ。同時にスポンサー企業はコマーシャル映像をテレビで流し、視聴者が、「あら、このコマーシャル、好き。今度、買ってみようかしら」と心が動き、商品購買に繋がるという経済の循環が、長く私たちの頭には当然のものとして受け入れられてきた。ところがこの期に及んで、その“当然”が崩れ始めたかに見える。

若者がテレビを観なくなった。高齢者層でさえ、決まった番組しか観ない、あるいはネットで映画を観る楽しみを覚えた。そう、スポンサーたちは、「ネットに広告を出したほうが効率的だ」ということに気づき始めたらしい。

なんてね。ここで経済問題を論じるつもりはない。長くテレビでお世話になった身とはいえ、私が騒ぐ筋合いの話ではない。ただ一つだけ、小さく寂しくなったことがある。

テレビを観る楽しみは、もちろん番組そのものにもあるけれど、その間に流れるコマーシャルに私は長い年月、どれほど刺激を受けてきただろうかと回顧するのだ。