僕に「社会」がすり寄ってくる

読んでない人はぜひ読んでみてほしいのだが、『喜嶋先生の静かな世界』では、「社会」と「研究」が対立するものとして描かれる。

生きるために人々がうまく立ち回り駆け引きをする場としての社会と。その社会から隔絶された「静かな」場としての研究。

喜嶋先生の生活は、社会から離れた、学ぶこと、謎を解き明かすことだけを求めるものだった。そこは社会とは異なる場所だった。そんな場があることをいままで知らなかった僕は、すっかり飲み込まれる。そして喜嶋先生の研究世界に惹かれ、僕は大学院に進む。

しかし物語が進むにつれ、僕に「社会」がすり寄ってくる。研究を続けていくと、むしろ「研究生活を続けるために」社会に取り込まれてゆくことになるのだ。大学で研究を続けていくためには、たとえば研究費をちゃんと獲得したり、学生指導や大学の雑務をおこなったりすることが必要になる。それは喜嶋先生的な研究世界からは、離れる行為だ。しかし仕方ないのだ。僕も結婚する。子供も産まれる。そうして僕は、社会のほうにどんどん近づく。喜嶋先生からはどんどん遠ざかる。

だけどそのなかで僕は願う。喜嶋先生だけは、そのまま静かな世界に、い続けてほしい、と。

社会から遠く離れた場所にいてほしい。

――このような小説の流れを知っていると、結婚式のエピソードは、まさに社会と研究(喜嶋先生の世界)が遠くにあることを伝える話に見えてくる。社会は先生の長いスピーチを許容しない。先生の歌をビデオにおさめない。社会は、「先生の、やたら長くて訳がわからないスピーチと歌を、価値のないものだとして切ってしまう」というかたちで、僕の前に現れる。

しかしこのとき僕は、社会の側にいない。なんて価値のわからないやつなんだと腹を立てる。僕は先生の価値を知っているのに。