『婦人公論』2021年7月13日号から連載がはじまった、重松清さんの小説『うつせみ八景』。
発売中の最新号を除く全編を掲載します。

「前回までのあらすじ」

水原孝夫は58歳で役職定年を迎え、出向先の「タマエス」で空き家のメンテナンスや新規事業に携わる。一人息子の研造(ケンゾー)は特撮ヒーローとして俳優デビューするも鳴かず飛ばず。劇団とアルバイトを掛け持ちするなか、公園で自主練中に足を骨折してしまう

「著者プロフィール」

重松清 しげまつ・きよし

1963年岡山県生まれ。99年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、同年『エイジ』で山本周五郎賞、2001年『ビタミンF』で直木賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞、14年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞。近刊に『ひこばえ』『ハレルヤ!』など。20年7月に『ステップ』が映画化された(飯塚健監督・山田孝之主演)

第一景

「空き家は廃屋ではありません(2)」

 水原孝夫は、会社帰りの電車の中で、家族のLINEグループをチェックした。美沙の投稿が一件。ケンゾーのケガと、我が家にしばらく居候する旨が伝えられた。救急車のスタンプが添えてあったが、だからこそ、たいしたケガではなさそうだな、と安堵した。ケンゾーからもアニメのキャラが〈よろしくお願いします!〉と土下座で頼み込むスタンプが送られている。
 孝夫は〈了解です〉と返した。我ながら硬い。若い連中は〈りょ〉、さらにはもっと短く〈り〉だけですませるらしいし、スタンプを使えば手間もかからない。わかってはいるのだが、どうにも抵抗がある。そういう性格なのだ。
 孝夫の返信は、いま電車に乗ったから、という報告も兼ねている。そうすれば急ぎの買い物にも対応できるし、美沙も孝夫の帰宅時間の見当がつくと、家事の段取りがつけやすい。この手の決まりごとは、いくつもある。それを積み重ねていくのが、家族の歴史ということなのかもしれない。
 公衆電話で「帰るコール」をしていた新婚時代から、ずいぶん長い年月が流れた。今年は結婚三十三年目になる。三十年の真珠婚と三十五年の珊瑚婚の間で、伝統的なセレモニーは定められてはいないのだが、十月の結婚記念日には、やはり、なにもしないわけにはいくまい。
 三年前には、真珠のネックレスは贈ったものの、充分なお祝いができなかった。そんな余裕はなかった。おととしと去年の結婚記念日も、ばたばたしたまま過ぎてしまった。つごう三年半になるだろうか。我が家は、介護という名の嵐に翻弄されどおしだったのだ。
 真珠婚式を迎える半年ほど前から、横浜に暮らす美沙の両親が、立てつづけに重い病気に侵された。父親が脳疾患、母親が進行性のがん、さらに闘病と介護の日々が続くなか、最初に父親が、ほどなく母親が、認知症を発症してしまった。近所でも評判だったおしどり夫婦らしく──ここだけは夫唱婦随であってほしくはなかったのだが。
 公立高校の国語教師だった美沙は、やむなく早期退職して、両親の介護に専念することになった。その決断の過程で、さらには介護の日々を通じて、兄夫婦と諍いを繰り返したすえ、もはや関係は修復不能なまでになってしまったのだが、それは、また、別の話になる。