状況を設定して、自分に役を与えると、不思議と冷静になれる。コンビニの深夜バイト中にからんでくる酔客も、悪の組織の幻覚攻撃ということにして、「おあいにくさま、その手には乗らないぜ」と余裕の笑みでかわしてきたのだ。
 いま潜入している場所は、マダム・みちるの自宅――内輪では『みちるの館』と呼ばれている。
 確かに「館」の名に恥じない、趣のある邸宅だった。レンガ敷きの小径がついた庭には色とりどりの花が咲き誇り、手入れの行き届いたレトロモダンな建物は、大正時代に建てられたものをリフォームしているのだという。しかし、特撮ヒーローの世界観では、その趣は、むしろ敵の首領が隠れ住むアジトにこそふさわしいものなのだ。
 午後のお茶会に招かれた。もともとは一人だったが、昨日のうちにマダム・みちるにケンゾーのことを電話で話すと、じゃあ息子さんもぜひ、という流れになった。
 美沙はそれを大いに喜び、安堵もしていた。
「みちるさんと話したら、もうだいじょうぶよ」
 マダム・みちるとお茶を飲み、おしゃべりを楽しんでいるうちに、心が「時」で満たされる。
「いつもは目の前を通り過ぎる時間を追いかけるだけじゃない? でも、それが変わってくるの。時間の流れ方がゆっくりになって、雨だれのしずくみたいに、ちょっとずつ染み込んでいくの」
 からからにびていた心の内側に時が満ちる。すると、そこにこびりついていた汚れ――嫉妬や我欲、執着といったものが洗い流されて、心は生まれたての赤ちゃんのようにらかになる。
「ケンちゃんも、お芝居の仕事があまりうまく回ってないし、大ケガまでしちゃって……ちょっと心を洗ってみるといいんじゃない?」
 どうにも怪しい。だが、なにかと心配をかけどおしの身では、へたに「だいじょうぶなの?」などと案じると、「親のことより自分の将来を考えなさい!」と一喝されてしまいそうで、つい気後れしてしまう。
 だからこそ、炎龍斗の出番なのだ。ヒーローをまっとうするぞ、と覚悟を決めれば、少しだけ強気になれる。「警戒せよ」というアラートが鳴りひびく中、母親の護衛ならびに救出というミッションも胸に秘めて、ケンゾーはホムホムになりきって、『みちるの館』を訪れたのだ。
 出迎えたのは白シャツに黒のカマーベストという執事風の男女二人組だった。「いらっしゃいませ、水原さま」と美沙に恭しく挨拶をして、松葉杖をつくケンゾーへの配慮も忘れない。しかし、これもまた、特撮ヒーローとしては、「警戒せよ」とアラートを鳴らさざるを得ない展開である。
 絨毯を敷き詰めた廊下を通って、天井の高いサロンに通された。壁際にソファーやラウンジチェアが配され、十人は優に座れる大きな円卓もある。さらにグランドピアノまで置いてあっても、まだ広さには充分に余裕がある。ピアノ四重奏の演奏会も楽に開けそうだった。
 中央に花を飾った円卓には、美沙と同じか少し年上の女性ばかり、五人の先客がいた。皆、美沙とは顔馴染みで、「あら、おひさしぶり」「先日はどうも」とにこやかに挨拶を交わす。
 美沙とケンゾーが並んで円卓につくと、さっそく先客の一人が「水原さん、そちらは?」とケンゾーについて訊いてきた。
 美沙もそれは織り込み済みで、あらかじめ「お母さんが全部答えるからね」と言っていたとおり、すぐに淀みなく答えた。
「一人息子で、ミュージカル俳優をやってるの。ほら、劇団四季みたいな」
 噓ではない。しかし、この劇団四季の出し方は、いかがなものか。これでは消火器を訪問販売するヤカラが「消防署のほうから来ました」と言うのと同じではないか。
 当然ながら芸名を訊かれた。
「ナイショ。まだ有名じゃないから」
 うまい逃げ方ではある。ただし、せめてもの親心で「まだ」を付けてくれたのかと思うと、愛想笑いに苦みが交じってしまった。