ブレイディみかこさんが『婦人公論』で連載している好評エッセイ「転がる珠玉のように」。今回は「君の名は」。原形をとどめなくなるほど名前を変格活用してしまうのは日本人の癖? 英国ではそれをネームコーリングと呼び、してはいけない事として育つ。ブレイディさんの保育士時代にはひとりだけネームコーリングの概念に懐疑的な4歳児がいて (絵=平松麻)

「名前を変格活用?」

少し前、社会学者の岸政彦さんのネット連載『にがにが日記』を読んでいると、一緒に住んでいる犬や猫の名前を人間が勝手に変えてしまうという例が書かれていた。例えば、岸さんの同居猫は「おはぎ」という名前なのに、「おは」と呼ばれるようになって、それが「おぴ」になり、「おぴる」「おぴるばん」と、もはや原形をとどめない呼び名になっているという。

しかしこれ、犬や猫だけのことではない。人間もそうだ。このわたしにしろ、「ミカコ」なので「ミッキー」と呼ばれるようになり、それが「ミック」になって、いつしかうちの連れ合いなどは「M」と呼んでいる。しかし、「M」は「ミカコ」のイニシャルなので原形をとどめていないこともない。単なる短縮形である。ということは、原形をとどめなくなるほど名前を変格活用してしまうのは、日本人特有の癖なのだろうか。そういえば、ある日本人のママ友がいて、彼女の小学生の息子はロバートというのだが、イタリアのサッカーリーグが大好きなので自分のことを「ロベルト」と呼べと言い出したらしい。しかし、それがいつの間にか「ベルート」になり、「ベルーニョ」「ニョーニョ」「にょんにょん」になっていた。「ロバート」から「にょんにょん」では、もはや活用変化の糸口すらわからない。

英国の人たちがあまりこのように大胆な名前の変格活用をせず、愛称といっても名前の短縮形ぐらいにとどめておくのは「ネームコーリングをしてはいけません」と言われて育つからかもしれない。ネームコーリングとは、誰かに名前以外の呼び名をつけ、中傷することだ。肌や髪の色、体の大きさ、かけっこが遅いとかオムツをしているとか、そういうことを表す言葉を誰かの呼び名にしてお友だちをからかったりしてはいけませんよ、とわたしも保育士時代に繰り返し子どもたちに言ったものだった。しかし、ひとりだけネームコーリングの概念に懐疑的な4歳児がいた。

ジョージというその男児は、何ごともディープに思索するタイプで、時おり大人が当惑するような正論をぶつけてくるのだったが、ネームコーリングにとりわけ関心を抱き、「これは君たちが教えているほど単純な問題ではないのだよ」と言いたげな目をして鋭い見解を示すのだった。