『婦人公論』2021年7月13日号から連載がはじまった、重松清さんの小説『うつせみ八景』。
発売中の最新号を除く全編を掲載します。

「前回までのあらすじ」

空き家のメンテナンスや新規事業に携わる水原孝夫は、ウェブメディアの取材を受けていた。その頃、妻の美沙は息子の研造(ケンゾー)を連れて謎の老婦人《マダム・みちるが》開催するお茶会へ。初対面でマダムに俳優の仕事のことやケガの事実を言い当てられた研造は動揺するのだった

「著者プロフィール」

重松清 しげまつ・きよし

1963年岡山県生まれ。99年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、同年『エイジ』で山本周五郎賞、2001年『ビタミンF』で直木賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞、14年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞。近刊に『ひこばえ』『ハレルヤ!』など。20年7月に『ステップ』が映画化された(飯塚健監督・山田孝之主演)

第一景

「空き家は廃屋ではありません(4)」

『みちるの館』からの帰途、美沙は鼻歌交じりに車を運転した。竹内まりやのメドレー──三十年以上にわたるファンで、CDの歌はリビングやダイニングでしょっちゅう流れているが、美沙が自分で歌うのは珍しいことだった。
「ゴキゲンじゃん」
 助手席のケンゾーが言うと、「まあね」と、まさにゴキゲンそのものの笑顔で認める。
「お茶会のあとって、いつも、こんな感じ?」
「そうよ。だって、すっきりしてるんだもん」
「こんなのが毎週?」
「そう、週に一度のお楽しみ」
 美沙は軽やかに答えた。その声にもメロディーがついているように聞こえる。
 やれやれ、とケンゾーは窓の外に目をやった。
 お茶会に怪しげな話は出てこなかった。神さまがらみや金儲け関連の話題になったら、その内容次第では、ネイチャレンジャー・炎龍斗として、強引に母親を連れ帰る覚悟だったのだが、ホムホムの正義の炎は、点火されることなく終わった。
 それはいいことなのだ、もちろん。安堵して、母親がお茶会のおかげで介護ロスから立ち直ったことを素直に喜ぶべきではあるのだが──。
「マダム・みちるって、おばあちゃんのケアマネジャーさんの紹介だったんだよね」
「そう、山本さんね。あの人は顔が広いから知り合いがたくさんいるんだけど、一番仲良しの知り合いのダンナさんの知り合いの、友だちだったか親戚だったかの知り合いがいて、その人と同じマンションの人の、知り合い」
 それは昨日も聞いた。『みちるの館』に向かう途中にも聞いた。そのたびに「知り合い」の数が一つ増えたり減ったりするのだが、とにかく、か細い縁だというのは間違いない。
 そんな細い糸をたぐって、美沙がマダム・みちるのもとを訪ねた理由は、ただ一つ──「ロス抜け」の達人という評判を頼ったのだ。
 両親合わせて三年半に及んだ介護の日々が終わって、胸にぽっかりと穴が空いてしまった。親を看取った達成感よりも、やらなければならないことがなくなってしまった虚脱感のほうが強くて、深い。母親を亡くした去年の暮れに始まり、出口が見えずにいた介護ロスから、いまようやく、マダム・みちるのおかげで抜け出しつつある。
「今日のお茶会にいた人も、みんなロスなの?」

「そう。ペットロスの人もいるし、介護のために会社を辞めて、やりがいロスになった人もいるし、あと、今日はいなかったけど──」
 自宅を建て替えたら、以前の家が懐かしくてたまらなくなった我が家ロスの人もいる。西城秀樹さんが亡くなって秀樹ロスに陥った人もいる。
 秀樹ロスの人は、じつは若い頃からファンというほどの思い入れがあるわけではなかった。ところが、いざ亡くなると、自分の青春がどれほどヒデキに彩られていたかに気づかされて、たまらない喪失感に包まれたのだという。
「いなくなって初めてわかる存在の大きさって、あるでしょ?」
「うん……」
「我が家ロスの人も、古い家に住んでるときには、使い勝手が悪いとか、文句ばっかり言ってたんだって。でも、取り壊されるのを見てたら、涙が止まらなくなって、そこからロスが始まったの」
 だからね、と美沙は続けて言った。
「ロスって、奥が深いのよ」
 どこか誇らしげに、胸を張る。そこから抜け出したいと思う一方で、ロスを決して全否定しているわけではない、ということなのか。
 困惑するケンゾーをよそに、美沙はまた、竹内まりやの曲をハミングで口ずさんだ。