「高三の夏の、保健室でのことだった」
「恋愛未満」の関係性を描いた名場面として挙げるのは、豊島ミホの短編集『純情エレジー』に収録された「あなたを沈める海」の一場面。
高校生の遥は、同級生の男子・照が堂々と小説を書いていることに、やや引いている。彼は休み時間も一心不乱に小説を書き、それを隠そうともしないのだ。
◆
「将来は売れっ子作家になって、自分の作品をアニメ化してもらいたいです」
と、進路講座の後に書いた作文発表で、照が言っていたのをおぼえている。照と仲のいい男の子たちは大げさなほど手を叩いたけれど、教室の三分の一くらいはしんとなった。三分の一のわたしたちは、優等生の照に真顔でそんなことを口にされて、言いようもない不安に襲われたのだ。優等生は優等生らしくきちんとしていて欲しい、若干つまらないくらいの人間でいて欲しい。そういう勝手な思いが多分にあった。
その、つかみどころのない照を、わたしがちゃんと見たのは、高三の夏の、保健室でのことだった。
体育をずる休みして、ソファのうえで脚をぶらぶらさせていたところに、照が入ってきたのだった。Tシャツにイモジャー姿の照は、保健室を見渡してから、わたしに「先生は?」とたずねた。そこには他に誰もいなかった。
(中略)
照はしばらく、向かいのソファで黙っていたけれど、クラスメイトと分ける沈黙に耐えかねてか、足を引きずって窓辺まで歩いていった。それから、窓枠に手をついて、大きくふうと息をした。
その背中になんとなく目が行った瞬間、わたしのなかで照は変わった。七月の緑をうつした窓に、すこやかな背中がひとつ、向かっている。山のてっぺんに立った送信所のアンテナみたいに、さみしくまっすぐな直線を、背筋が描いていた。
――このひとはきれいなんじゃないかなあ。
とわたしはおもった。そしてもうひとつ、さみしいんじゃないかな、とも。
わたしには、脇目もふらず夢中になれることはなにもない。あったこともない。けれど、それを持っているということは、うつくしくて、そして孤独なことなんじゃないかと、ふと感じた。照の背中を通して、一瞬だけ、カーテンの向こうに透かした空のような、淡いひかりを見たのだ。
「照くん」
と呼ぶと、彼は振り向いて「え?」と言った。
「小説ばっかで、さみしくないの?」
わたしの質問は、ともすれば、ばかにしたような言い方に聞こえたかもしれない。けれども照は、「さあ……」と少し首を傾げたあと、笑顔になって言った。
「さみしいよ」
台詞と表情が合っていなかった。照はものすごく満足げに笑っていた。
その顔にわたしは言いようもなく惹かれ、ソファから身を乗り出していた。
「わたしと遊ぼう」
(「あなたを沈める海」『純情エレジー』p38-40豊島ミホ、新潮社)
◆
周りからは笑われるような自分の夢を、はっきりと口にし、それを迷わない同級生。彼に対して、遥は最初そこまで興味を持っていなかった。
しかしある日保健室で、彼の姿を見たときから、遥のなかで照の存在が変わる。その瞬間を描いたエピソードである。
私がこのエピソードをとても好きな理由は、遥から見た照が、理解できるようで理解できない、そのぎりぎりのラインのところにちょうど存在しているからだ。
というのも、これ、「恋をさせる魅力とは何か?」をものすごく端的に表現したシーンだと思うのだ。