「ないない、そんなのなんにもないって」
 笑ってはみたものの、声は微妙に揺れた。確かにケンゾーの言うとおりだった。「不安」や「心配」というはっきりしたものではなくても、その前の段階の、もやもやした思い──虫の知らせのようなものが、会社をひきあげる前から胸にあった。吉田奈美恵さんのことがずっと気になっている。熟年離婚は、決して他人事ではないのだ。
 ケンゾーは「ま、いいけど」と、まなざしをほんのわずか和らげて、言った。
「追っかけセブンティーズに教えてもらったんだけど、ダンナがおみやげを買ってくるときって、たいがい奥さんのご機嫌伺いなんだって」


「それ……例の三人組だっけ」
「そうそう」
 ケンゾーは屈託なくうなずいて、「老人の心理とか教えてくれるから、芝居でもシナリオでも、いろいろ勉強になるんだよね」と言う。
 孝夫は複雑な表情になった。七十歳を過ぎたご婦人方が、ケンゾーを『ネイチャレンジャー』時代から熱烈に応援してくれている。鳴かず飛ばずの元イケメン特撮ヒーロー・炎龍斗の父親としては、ファンがいるのはありがたい話である。文字どおり、枯れ木も山の賑わいというやつだ。しかし、生身の、もうじき三十の大台に乗る一人息子・水原研造の父親としては……頼むからアヤマチだけは犯さないでくれよ、と祈るしかない。
「で、セブンティーズに言わせると、危機感があればあるほど、定番じゃなくて、最近流行りのスイーツを選ぶみたいだよ」
「……なんで?」
「話題だから買ってみたとか、テレビで観たからとか、口実とか大義名分が立つでしょ。裏返せば、そういうのがないと奥さんにおみやげを買って帰れないわけ。そんな夫婦関係ってマズいよねって言ってたよ、三人とも」
 図星だった。夫婦関係はともかく、大義名分が必要なのは、たぶん……間違いなく、正解……。
 美沙がキッチンから戻ってきた。ガラスポットの中で何種類かのハーブの葉がたゆたっている。
「夜だからノンカフェインのハーブティーね。みちるさんのオリジナルブレンド」
 マダム・みちるが庭で摘んで天日で乾燥させたものを分けてもらったのだという。
「あと、いまお茶をいれてるときに思いだしたんだけど」
 カッペリーニのこと──。
「ペッカリーニは論外だけど、カッペリーニもほんとうは間違いなんだって。イタリア語で正しく発音すれば、カペッリーニなの。『カッペ』じゃなくて『カペッ』。でも、日本ではカッペリーニのほうが言いやすいから、メーカーさんも含めてそっちで定着しちゃったみたい」
 そのウンチクを教えてくれたのも、マダム・みちるだった。
「でもね、みちるさんはそれをダメだって言ってるわけじゃないの。よくいるでしょ、日本で食べるイタリアンは本場とは違うとか、文句ばっかりつける人。みちるさんはそうじゃなくて、呼び方が変わるのも、料理がアレンジされるのも、ぜーんぶ大らかに、面白いわよねえ、って愉しんでるの。そういうところがいいのよ、ほんと……」