2021年10月から、吉田篤弘さんによるweb書き下ろしの掌編小説連載がスタートします。

2023年に創刊50周年を迎える〈中公文庫〉発の連載企画です。物語は毎回読み切り。日常を離れ、心にあかりを灯すささやかな物語をお楽しみください

「著者プロフィール」

吉田篤弘 よしだ・あつひろ

1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を続けている。著作に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』『おるもすと』『天使も怪物も眠る夜』『月とコーヒー』『それでも世界は回っている』『屋根裏のチェリー』など多数

第1話

「中庭のオレンジ」

 
「気ままな古本屋でございます」
 ベリーはいつも申し訳なさそうに言いました。
「今日はここにおりますが、明日はどこにいるか分かりません」
 行商人から譲り受けた屋台に、ありったけの古本を詰め込み、彼はこの小さな国の隅から隅までを旅しながら、本を売り歩いていました。
 ときには、街から離れた誰も住んでいないようなところまで足をのばし、森を抜けて湖の近くまで行ったこともあります。昔の伝説集などをひもとくと、そのあたりは、「森の向こうのこの世の果て」と呼ばれていました。しかし、あの大きな争いが起きて、人も国も散り散りになったとき、新たな境界線が引かれて地図が書き変わりました。以来、この世の果てがどこにあるのか誰にも分からないのです。
 それでも──いや、だからこそベリーは遠いところまで行きました。
(誰からも忘れられたような遠いところに本を届けたい)
 ベリーが本を売り歩く仕事を続けているのは、その思いが胸の真ん中にあるからでした。


 森の手前に一軒の小さな家を見つけたのです。
 ベリーがそのあたりへ来るのは初めてで、(遠くまで来た甲斐があったぞ)と息をつきました。夕陽が森の向こうに沈みかけています。家には柔らかなあかりがともっていました。
(それにしても喉がかわいた。水を一杯、いただけたらいいのだけれど)
 彼の願いは、水ではなく一杯のコーヒーによって叶えられました。迎え入れてくれたのは、その家に一人で暮らしているサラという女性です。
「古い本を売り歩いています」とベリーが玄関口で伝えると、
「それはまた願ってもないこと」
 彼女は小さな声でつぶやいて、ベリーを招き入れました。
 外観からも察せられましたが、家の中は小ぢんまりとして片付いており、コーヒー豆を挽いたいい香りがしています。大きなテーブルと何脚かの椅子、銀色の薬罐が置かれた台所、きれいに磨かれた窓、年代物の古風な模様のカーテン、数えきれないほどの色を織り合わせたカーペット、そして、いまさっきまでそこに誰かが座っていたかのような揺り椅子。