幸希は、沙南に「ねえ沙南、犬飼うんだったらどんな犬がいい?」と尋ねる。犬もまた、母親が決めたNG規範だ。

沙南は笑って、なに急にと尋ねる。

旅行を通して、沙南はどこかで「幸希は母親の決めた規範を外れない人間だろう」ということもわかっている。

しかしそれでも、幸希の冗談のような言葉に乗っかる。「あれがいいな、あのぬいぐるみみたいで可愛いけど地頭が悪そうな、幸希みたいな犬」「人に好かれるのは得意だけど命令がなきゃ何もできなさそうな感じが幸希にそっくりだよ」という沙南の言葉は、幸希が規範から外れないけれど外れることに憧れも持っている様子を端的に表しているように思える。

幸希は沙南に対して「母親がコロナで死んだらうちで二人で暮らそう。それで結婚して、レトリーバーを飼おう」と言う。これが現実的な発言ではないとふたりともわかっている。現実的ではないけれども、それでも切実な言葉が、このふたりの関係性を端的に表現している。ゴールデンレトリーバーが幸希みたいだと沙南が言うことも、結婚して犬を飼おうと幸希が急に言い出すことも、ふたりの今の状況を表現した台詞なのである。

恋人たちの会話は、距離が近いからこそ、そのふたりにしかできない会話を見たい。
そこには冗談みたいな台詞のなかに入り込む、ふたりの関係と今の状況をさらりと現した言葉があってほしい。わざとらしくないけれど、ぎくりと確信をついた、ふざけた言葉。

そういう会話の応酬を読んだとき、私は初めて「恋愛小説読んでよかった~!」と思うのである。

三宅香帆さんの連載「書きたい人のための〈名場面読本〉」一覧