木曜日の夜の電話で不審者の心当たりを尋ねると、奈美恵さんは「もしかしたら、別れたダンナかもしれません」と言った。
 孝夫もそれは大いにあるだろうと思っていた。空き家になった我が家の鍵を持っている人物は、そうざらにはいない。
「忘れ物を取りに来られたのでしょうか」
 孝夫が訊くと、奈美恵さんは少し考えてから
「そうじゃないと思います」と言った。
 次の日曜日に、一人娘の詩 織さんが結婚式を挙げる。だが、別れたダンナ──白石正之さんは、式には出ない。
「本人は出たがってるんですけど、娘がどうしても嫌だって」
 先月から何度も電話や手紙でやり取りをしたが、詩織さんは頑として父親の出席を認めない。
「わたしもいまさら両親の席に彼と並んで座るのもアレだし、とにかく式を挙げる主役が嫌がってるわけですから、どうしようもないですよね」
 話の様子からすると、離婚にあたっての負い目は正之さんの側にあるのだろう。
「ウチに誰か来るのって、土曜日ですよね?」
「ええ、先々週と先週、どっちも夜十時過ぎです」
「じゃあ、やっぱり彼だと思います」
 正之さんは、離婚後は生まれ故郷の札幌で暮らしている。ご近所に見つからないようにかつての我が家を訪ねられるのは、土曜日の夜しかない。
「家の中で、なにをなさってるんでしょうか」
「思い出にひたってるんじゃないですか」
 他人事のように突き放す。いや実際、もはや他人なのだ、奈美恵さんと正之さんは。
 だからこそ──。
 一夜明けた金曜日の午後、鍵の交換を注文する
メールが奈美恵さんから届いた。
〈娘とも相談の上、鍵を取り換えることにしました。工事の手配などよろしくお願いします〉
 急いで業者に連絡して見積もりを取った孝夫は、確認の電話を入れたついでに──本音ではむしろこちらを伝えたくて、言った。
「ゆうべのお話からすると、なんとなく、娘さんの結婚式が終わったら、もういらっしゃることはないんじゃないかと思うんですが」
 だが、奈美恵さんは譲らなかった。
「そうかもしれませんけど、やっぱり向こうが合鍵を持ってるというのは、ちょっと……」
「向こう」の響きが、心理的な距離の遠さをまざまざと感じさせる。
「最初は札幌と東京だからだいじょうぶだと思ってたんですけど、甘かったですね」
 奈美恵さんが口にする「だいじょうぶ」も「甘かった」も、トゲになって孝夫の耳に刺さった。