「今はこの言葉は使ってはいけないのかな」

孫娘がサックスを習っていて、おじいちゃんの大好きなデューク・エリントンの「A列車で行こう」を吹いてくれたことや、孫娘のボーイフレンドが若いのに古いジャズに造詣が深く、すっかり意気投合したことなどをおじいちゃんは楽しそうに話した。孫息子は家族に同性愛者であることをカミングアウトしたばかりで、おじいちゃんは正直びっくりしたそうだが、そういうところを見せるといけないと思い、笑って祝福したと言った。

「孫娘の恋人はブラック(黒人)で……」と言ってから、おじいちゃんは口元を押さえた。「ひょっとすると、今はこの言葉は使ってはいけないのかな」と心配そうにわたしを見ている。「孫がゲイで……」と言った後も、「今はゲイという言葉は禁止されているのかな」と尋ねてきた。「どちらも、大丈夫ですよ」とわたしが言うと、ホッとしたように笑い、会話を続ける。フランスでずいぶん戒められてきたのかなと思った。長く生きると使えない言葉が増える。彼のように一所懸命に注意してしゃべる人の努力しようとする心情は、「はいそれ、アウト」と使えない言葉と一緒に切り捨ててよいものではない気がする。

だけど、たぶん、おばあちゃんが胸の前で手を合わせたときも、野暮とか言って曖昧にせず彼女の思い込みを正すべきだったと言う人もいるだろう。

このことを家族と話そうとしたが、「野暮」という言葉の英語の定訳である「rudeness」や「unsophisticated」ではこの感覚は説明できそうもない。そもそも「野暮」って日本語でどういう意味なんだっけ、と家に帰ってネットの国語辞典で調べてみるとこう書かれていた。

人情の機微に通じないこと

ああこれだ、と思った。

だけどこれもまた、英語にはなりにくい言葉だ。