2021年10月から、吉田篤弘さんによるweb書き下ろしの掌編小説連載がスタートしました。

2023年に創刊50周年を迎える〈中公文庫〉発の連載企画です。物語は毎回読み切り。日常を離れ、心にあかりを灯すささやかな物語をお楽しみください

「著者プロフィール」

吉田篤弘 よしだ・あつひろ

1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を続けている。著作に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』『おるもすと』『天使も怪物も眠る夜』『月とコーヒー』『それでも世界は回っている』『屋根裏のチェリー』『ソラシド』など多数

第2話

「オオカミの先生」


「いいかい? もし、私が帰って来なくても驚くことはない」
 イドの父はそう言いました。
「いつでも私はお前のそばにいるのだから」
 イドは十二歳でした。父と二人きりで小さな家に暮らしていたのです。父は名高い測量師であった祖父の仕事を引き継ぎ、さまざまな要請に応じて旅を繰り返してきました。およそ十日ほど旅に出ては家に戻り、数日の休息を経て、また旅に出ます。父がいないあいだ、イドは一人で家を守り、一人で食事をして、一人で果物を育て、一人でお茶を飲んで、一人で眠りに就きました。
 ある日、いつものように旅へ出て行く父が、
「今日はまた一段と風が強いな」
 目を細めて遠くを眺めていました。
 もともと、そのあたりは風がよく吹くところでしたが、イドの父は子供の頃から風を嫌い、
「雨や雷は何でもないんだ。しかし、私はいつでも風がおそろしい」
 そう言って首をすくめました。
 あるいは、何か予期するところがあったのかもしれません。イドの父はその旅から戻らず、測量の地に向かう途上、大風に巻き込まれて、「空の彼方へ消えたのです」と最後を見届けた村人から葉書が届きました。
「じつに立派なお父上でありました」と。


「君は一度、オオカミの先生のところへ行ったらいい」 
 果物を買い取ってくれる市場で、イドは誰かに声をかけられました。
「そうだ、それがいい。心を痛めた者は、皆、先生のところへ行く」
 別の誰かが優しげな声で賛同しました。
「あの」とイドは二人の誰かに訊きました。「その先生はなぜ、オオカミの先生と呼ばれているんですか」
「髪の毛がまるでオオカミのようだからだよ」
「輝くような銀色でね、一見、白髪に見える」
「でも、あの先生は年寄りじゃない。たぶん、まだ若いだろう」
「皆の話を熱心に聞いてくれるんだが、自分のことはほとんど話さない」
「だから、本当のところは分からないが、あの先生は心を整えてくれるだけじゃなく、ヴァンパイア退治の名手でもあるらしい」
「ヴァン──パイア──ですか?」
 イドがたどたどしく訊きなおすと、
「吸血鬼のことだよ」
 誰かがそう答えました。