あるとき、私が父と約束した時間に遅れて帰宅したことがあった。前もって遅れることは電話で母を介して知らせたつもりだが、それでも「待たせられた」という不快感が父の中でじわじわとわき上がってきたようだ。

「遅くなりました」

玄関を上がって居間に顔を出したとき、父は不機嫌そうな顔で指の爪を切っていた。

「いったいどういうつもりだ!」

父は爪に視線を向けたまま、私を怒鳴りつけた。

「でも、遅れるってさっき母さんに電話しておいたけど」

こういう口答えを父はことのほか嫌う。たちまち不愉快マグマが沸騰点に達した。

そして、「なんだ、その生意気な口の利き方は!」と言うが早いか、持っていた爪切りを私めがけて投げつけた。小さなステンレス製の爪切りがビュンという音とともに空を切ってこちらへ向かってくる。嘘でしょ。

「おっとー」

すかさず私は身をかわし、危ういところで爪切りが顔面に当たるのを避けることができた。こういうとき、運動神経に長けた母に似たことをありがたく思う。

それ以来、父が爪を切っている最中は機嫌を損ねぬよう注意した。怒らせると、またいつ飛んでくるかわからない。子供はこうして一つずつ学習しながら生き延びていくのである。