父が爪を切るのを好んでいたせいか、家のあちこちに爪切りが置かれていた。父の書斎に一つ、居間の棚の小さな革製の文具入れに一つ。洗面所の抽斗に一つ。母の化粧台の前に一つ。電話の横の小箱に一つ。

「おい、爪切りがないぞ」

定位置に爪切りが見当たらなくなると、父の声が響く。すかさず誰かがサッと差し出すことができるほど、我が家にはいくつも常備されていた。

それら歴代の爪切り軍団の中で、おそらく数十年前からウチにあったと思われるハサミ型の爪切りを私は好んで使っていた。錆びていたが、切れがよかった。その気に入りの爪切りを若い頃、スキー場に持って行って失くしてしまった。今でも思い出すと悔やまれる。あの爪切りは、よく切れた。

友達のお父さんが縁側に新聞紙を広げて爪を切り始めたそうだ。パチンパチンという音がして、ちょっと音が変だと思いつつ、ああ、爪を切っているんだなと家族が納得していたところ、まもなく縁側から声がした。

「おい、この爪切りはちっとも切れないぞ」

「え、そうですか?」

お母さんが見に行くと、父上の手にあったのは爪切りではなく、ホチキスだったという。好きな話だ。


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