酒に溺れたわけではない。博打にのめり込んだわけでも、暴力をふるったわけでも、理不尽な追い詰め方をしたわけでもない。一つひとつは、どれもささいな、チクッと痛む程度のトゲだった。だが、それが無数に刺さると、もう耐えられない──少しずつ溜まった水滴が、最後にコップからあふれてしまうようなものだろう。
「もう一回、最初からやり直せたら、あんな失敗はしない。いい夫になって、いい父親になって、楽しい思い出を、たくさんつくる。絶対につくってやる。だいじょうぶだ。お父さん、反省してるんだ。今度は、もう、絶対に……」
 だが、人生は一度きりで、後戻りをしてやり直すことはできない。
 白石さんもそれはわかっている。
 だから、声をグッと持ち上げて、明るく言った。
「お父さんもがんばって再婚しようかなあ。意外とモテてるんだぞ、札幌で」
 あははっ、と笑う。
 年老いた母親の介護をする、バツイチの、再就職組の、アラ還オヤジ──なのだ。
 孝夫もそっぽを向いたまま、白石さんに付き合って笑う。
「まあ……元気でやってくれ。お父さんが最後に言いたいのは、それだけだ」
 白石さんはそう言って背筋を伸ばし、居住まいを正して、幻の詩織さんにゆっくりと語りかけた。
「お母さんをよろしくな、お母さんと詩織とダンナさんで、子どもが生まれたら子どもも一緒に、ずっと仲良くな、ずーっと、幸せにな……」

 せっかく伸ばした背筋が曲がる。肩がすとんと落ちた。
「結婚、おめでとう」
 途中で裏返ってしまった声は、そのまま嗚咽になった。


 腕を目元に押し当ててひとしきり泣いたあと、白石さんは赤く潤んだ目をしばたたいて言った。
「最後の最後に、初めての体験ができました」
「──え?」
「いま思ったんですけど、私、この家で泣いたのって初めてです。テレビのドラマや小説でウルッときたことはあっても、いまみたいな泣き方をしたこと……ありませんでした」
 孝夫も不意を衝かれた。なるほど、自分もそうだな、と気づいた。
「いい思い出ができました」
 白石さんは泣き笑いの顔になった。泣いていた子どもが、思いがけないプレゼントをもらったみたいに。
「泣きたいとき、けっこうあったんですよ。仕事のことでも、ウチのことでも。だけどねえ、やっぱり泣けないでしょ、泣くわけにいかんでしょ」
 孝夫は黙ってうなずいた。わかるような気もする。いや、きっと自分も同じだ、と認める。
 白石さんは天井を見上げた。
「でも、もっと泣いてもよかったのかなあ……お父さん、寂しいんだぞ、たまにはこっちを向いてくれよ、って……泣き真似しちゃったりしてね」
 左右の目尻に指を添えておどけた。