
2021年10月から、吉田篤弘さんによるweb書き下ろしの掌編小説連載がスタートしました。
2023年に創刊50周年を迎える〈中公文庫〉発の連載企画です。物語は毎回読み切り。日常を離れ、心にあかりを灯すささやかな物語をお楽しみください
「著者プロフィール」
吉田篤弘 よしだ・あつひろ
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を続けている。著作に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』『おるもすと』『天使も怪物も眠る夜』『月とコーヒー』『それでも世界は回っている』『屋根裏のチェリー』『ソラシド』など多数
第4話
「ナポレオン・ツリーと千の声」
あの冷たいアパートの部屋に帰りたくない、とタトイは思ったのです。木曜日の午後八時、気温は九度でした。仕事を終えた帰り道に、ふと、求人募集の貼り紙が目がとまりました。
ナポレオン・ツリー朗読旅団
(さて、なんのことだろう)
書いてあることがいちいち分からなかったのですが、部屋に帰り着くと薬缶で湯を沸かし、インスタント・コーヒーを飲みながらタトイはいつものようにラジオのスイッチを入れました。隙間でもあるのか、外気が容赦なく入り込むその部屋で背を丸め、タトイはラジオの声に親しみを覚えていました。冷たくなった料理を温めなおし、ラジオを聞きながら夜の長い時間を過ごすのです。
しかし、その夜はラジオから聞こえてくる声がひとつも耳に残りません。右の耳から左の耳へ抜けていくというのは本当にあるのだと知り、そのかわりに、あの貼り紙にあった、「本を読みながら旅をする」というフレーズを反芻していました。「ナポレオン・ツリー」という謎めいた言葉も気になります。いえ、気になるだけでは済まされず、「ナポレオン・ツリー」という言葉の並びに自分の体が絡めとられ、どうしても抜け出せなくなる──そんな夢を、その夜に見たのです。
「すみません、父の体調がすぐれないのです」
タトイは会社に電話をして休暇をとることにしました。タトイの職務は会社に関わるさまざまな計算をすることでしたが、計算を担う者はもう一人いて、タトイがしばらく休んでも、何ら問題は起きないのです。
「ですので、父に会ってきます」
それはじつのところ、まったくの偽りでした。どうしても、昨日の貼り紙にあった「ナポレオン・ツリー」の正体を確かめたかったのです。はたして、会社を休んですべきことなのか、本当のところは分かりません。ただ、この機に別の仕事に就くことを検討してもよいのではないかという頭もありました。
タトイはアパートを出ると、昨日の夜、貼り紙を見たところまで足早に向かいました。求人の問い合わせ先が記憶になく、いまいちど確認したかったのです。ところが、貼り紙を見つけて、あらためて見なおしてみたところ、どこにも連絡先が記されていません。(どういうことだ)と天を仰いだとき、視界の端に古びたビルディングが見えました。街路に向けて小さな看板が突き出され、そこに、〈ナポレオン・ツリー朗読旅団〉とあったのです。