それは、その古びたビルディングの四階にあり、さして広くもないフロアの隅にひっそりと隠れていました。件の貼り紙も控えめなもので、表の看板も地味な色合いの目立たないものです。ドアに貼り付いた表札に至っては、虫眼鏡で覗かないと何が書かれているのか分かりません。しかし、タトイは誰よりも目がいいのが自慢でしたから、貼り紙と看板と表札に記された〈ナポレオン・ツリー〉をしっかり読みとりました。
 ドアをノックし、「失礼します」と言いながら中に入っていくと、小さな部屋の壁という壁に本棚が並び、床にも所狭しと本が積まれています。一見、誰もいない書庫のように見えましたが、どこからか、「いらっしゃい」と男の声が聞こえました。あたかも、そのあたりに積んである本の中から聞こえてきたかのようです。が、タトイの目は、本が積まれたその向こうからこちらを覗いている宝石のような瞳を見出しました。その瞳の持ち主こそ、
「ナポレオン・ツリーと申します」
 自らをそう名乗りました。実名なのかニックネームなのか、そこのところは分かりません。しかし、その宝石のような瞳を持った男は、ひとたび見たら死ぬまで忘れられないような髪型をしていました。
 特に説明がなされたわけではないのです。しかしながら、その髪型によって、(ああ、この人はたしかにナポレオン・ツリー氏だ)と理屈を超えて理解できました。なんというか、頭の上にものすごく込み入った枝葉を持った樹木が生えているように見えるのです。

「貼り紙を見ていらっしゃったんですね」
 ツリー氏が頭を揺らしながらそう言うと、樹木を形づくる髪の毛の一本一本が、「いらっしゃったんですね」「貼り紙を見て」「いらっしゃったんですね」と小さな声を発するかのようです。
「お名前は?」
「タトイと申します」
「失礼ですが、君はまだ子供ではありませんか」
「いえ、昔は子供でしたが、いまはもう大人です」
「なるほど。では、君は自分の中に、さみしい心があると思いますか」
 不意にそう訊かれて、タトイは戸惑いました。
「ラジオの声を聞くと、さみしい心が消えてなくなるように思います」
 戸惑いながらもそう答えると、
「結構です。大変に結構」
 ツリー氏は手もとにひろげたノートに鉛筆で何ごとか書きつけ、「結構、結構」と何度も頷きました。どういうものか、氏のそうした様子がタトイの胸のうちに郷愁をもたらし、(なぜだろう)と思案するうち、氏の声が子供の頃に他界した父の声に(よく似ている)と思い出されました。
「では」と氏はタトイの目を宝石の瞳でじっと見ました。「ミス・マキセに会いに行ってください。彼女が朗読のレッスンをしてくれるでしょう」
 ツリー氏はノートの角をびりりと破き、そこへミス・マキセの住所を走り書きして、タトイに差し出しました。

 

       ✻

 

 そのいかにも心もとない紙きれを手にし、タトイは郊外へ向かう鈍行列車に乗っていました。行き先はその昔、鉱山によって栄えた町で、人々は山に眠っていたものを掘り尽くすと、こぞって町を去り、あとには荒廃した町の抜け殻だけが残されました。
 そうした話をタトイはラジオで聞いたことがあるのです。
「そして、いつからか、このさびれた土地に、黒いトラックに乗った黒いシャツの男たちが黒い電話機を棄てに来るそうです」
 ラジオの声はそう付け加えました。巷では「電話機の墓場」と呼ばれていて、とうに使われなくなった旧型の黒い電話機が、夜ごとあらわれる黒シャツの男たちによって不法投棄されているのです。

 

 降り立った駅を出ると、かつての車寄せが残されていました。しかし、車はおろか、人の姿さえどこにも見当たりません。おそろしいくらいにしんと静まり返り、タトイはあらかじめ調べておいた道のりを頭の中に描いてミス・マキセの家を目指しました。