どれほどのレッスンが必要になるのか、タトイは知らされていません。これまで人前で朗読をしたことはありませんし、長い旅に出たこともありませんでした。すべてが未知の領域にあるのです。しかし、ミス・マキセの家で迎えた最初の夜、タトイはたしかに耳にしたのです。
 それは、かすかに聞こえる誰かの声でした。ラジオの声ではありません。ラジオはアパートの部屋に置いてきました。それゆえ、果てしない荒野の静寂に自分の心が縮こまり、ラジオの声をもとめるあまり、聞こえるはずのない声を受信しているのではないかと思われました。
 でも、そうではなかったのです。
 朗読の練習を繰り返して十日あまりが過ぎた夜、「風にあたりましょう」とミス・マキセがタトイをバルコニーに誘いました。バルコニーには壊れかかった椅子がふたつ置かれていて、二人が並んでそこに座ると、あとはもう眼前にひろがる夜の荒野を眺めるしかありません。
「耳を澄まして」とミス・マキセが声をひそめました。これほどの静寂に支配されているのですから、本当は耳を澄ます必要などないのです。それでもなお耳を澄まそうとすると、胸の中も澄みわたって、何かが忍び込んでくるような気がしました。
 風が吹いています。
「これは南風ですよ」
たしかに頬にあたるその風はやわらかく、荒野をわたって南から吹いてきたのだとタトイにも分かりました。
「南風が吹くと、棄てられた電話機に染み込んだ声がほどけるんです」
ほどけた声は風にあおられ、あるいはもうこの世にいないかもしれない人々の声が──千の声がよみがえって、静寂を埋め尽くしていきました。
「聞こえますか?」
 タトイは目を閉じました。
「風が朗読をしているようです」
 そう答えて口を結び、二人はそうしていつまでも目を閉じていました。
 

 

  
※次回の更新をお楽しみに!

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