2021年10月から、吉田篤弘さんによるweb書き下ろしの掌編小説連載がスタートしました。

2023年に創刊50周年を迎える〈中公文庫〉発の連載企画です。物語は毎回読み切り。日常を離れ、心にあかりを灯すささやかな物語をお楽しみください

「著者プロフィール」

吉田篤弘 よしだ・あつひろ

1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を続けている。著作に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』『おるもすと』『天使も怪物も眠る夜』『月とコーヒー』『それでも世界は回っている』『屋根裏のチェリー』『ソラシド』など多数

第5話

眠りの果ての〈兄弟の都〉

 

 長い眠りから目覚めたイリエは、自分が穴ぐらの中にいるのをかろうじて理解しました。おだやかで、あたたかく、それでいて、どうしてよいか分からない不安が胸の真ん中に林檎の大きさでありました。
 予感はあったのです。長い眠りから目覚めるとなれば、頭がぼんやりとして、しばらく何も思い出せないのではないか──そんなことを考えながら眠りに就いたのです。
 予感はそのとおりで、眠りに入る前のことで覚えているのは、ごく僅かでした。
(あれはたしか金曜日だった)
 イリエはぼんやりとした頭で記憶を探りました。
 小雨が降る金曜日の夜、友人のモトイが、「君は今日、誕生日だろう」と訪ねてきたのです。
「きっと、誰も祝ってくれないんじゃないかと思って──」
 モトイはとても小さな箱に入ったとても小さなケーキを買ってきてくれました。ケーキには赤いチェリーが乗っていて、殺風景な部屋の中で、その赤いチェリーひとつが、とっておきの秘密のように輝いていました。
「冬眠のことは考えたかい?」
 モトイの声はとても柔らかく、ケーキの甘い香りと相まって、すでにイリエは眠りの方へ引き寄せられていたのかもしれません。
「君は今日で十六歳になった。それが何を意味するか分かるだろう? 君はもう眠りが許される年齢になったのだ」
 そう言って、モトイは部屋の中を見回しました。
「それにしても、この部屋は暗いよ。あたらしい電球に換えた方がいい」
 ケーキの箱が置かれたテーブルに金曜日の夕刊が投げ出されていました。イリエは金曜日の夕方になると、駅の売店で新聞を買い、ニュースはひとつも読みませんでしたが、最後のページの隅に掲載されているクロスワードパズルを解くのが週に一度の楽しみでした。
 それにしても、偶然というのはおかしなものです。そのとき、テーブルの上に投げ出されていたパズルの答えは、「おやすみなさい」でした。
 イリエは一人で暮らしてきたので、誰かに「おやすみなさい」と言われたことがありません。ざらざらとした新聞紙から、ざらざらとしたその声が立ち上がり、
「もう、いいんだよ。もう、眠ったらいい」
 そう宣告された気がしました。
 それで、イリエは冬眠者になろうと決めたのです。誕生日の三日ほどあとのことで、電球を交換する間もありませんでした。