来る2023年、中公文庫は創刊50周年を迎えます。その記念企画として、本連載では〈中公文庫の顔〉ともいうべき作家が自身の著作について語ります。さらにイチ押しの中公文庫のおすすめも――。レジェンドが明かす創作秘話とは? 第1回は、本作『スティル・ライフ』で芥川賞を受賞した池澤夏樹さんの登場です。

ぼくは『スティル・ライフ』で芥川賞を受賞して作家になった。書いたものがまず間違いなく活字になるという身分を得た。それはそうなのだが、この作品が中公文庫に収まったについては前史がある。

二十代から詩やエッセーを書き、もっぱら翻訳で生計を立ててきたが、小説への思いは心のどこかにあった。そこで三十代も後半になって一念発起、長篇『夏の朝の成層圏』を書いて、当時まことに元気だった中央公論社の文芸誌「海」に載せてもらった。

長篇だから二回に分けるというのはいいとしても、前半が載った号で「海」は終刊、後半が宙に浮いてしまった。そのまま単行本にしてもらって、友人たちはおもしろがってくれたけれどもそれ以上に広い読者を得ることにはならなかった。自分の力はこんなものだと達観した。

何年か後、同社の親しい編集者のK氏が「池澤さん、もう一度やりましょうよ」と声を掛けてくれた。「今度は策を練ります」。

策というのは中央公論新人賞という文学賞の応募作とすること。賞は執筆の促しとして悪くない。

さて、何を書こうか。

しばらく前から逃亡者の姿がなんとなく頭にあった。サスペンスではなく社会の外に身を置く者の話。これを膨らませて彼の犯罪は公金横領という設定にした。これならば時効までは五年、その金額に利子を付けて返せば民事の訴訟もない。期限限定の犯罪者。

彼は社会と自然の境界線に立って自然の側を見ている。

(後の話だが、英訳を読んだイギリスの文芸評論家が、これは日本の隠者文学、『方丈記』や『徒然草』の伝統を受けつぐものだと言ってくれた。そうかもしれない。)

これに副人物を配置して二人の会話で話を進める。話題はもっぱら自然の側のこと。ちょうどこの年の二月に岐阜県神岡のカミオカンデでニュートリノが検出されたという報道を新聞で見た。ぼくは大学で物理をかじったからこのニュースの意味はわかる。チェレンコフ光が使える。

そんな風にして短篇と長篇の間くらいの長さの作品ができた。タイトルがむずかしい。外来のカタカナ語は異化作用があって詩的効果も生じるのだが、しかしためらいもあった。典雅な和語はないかと探したが見つからない。結局、「静かな生活」と「静物画」という二重の意味のこれにした。ともかく静かな話が書きたかったのだ。

中央公論新人賞の選考委員、河野多恵子・丸谷才一・吉行淳之介のお三方はぼくに賞を授けてくださった。やれやれ一安心。(その後、ここ何十年か、ぼくはいくつもの文学賞の選考をしてきたが、日本の文学賞はまこと厳格で勧進元の意向が反映されることはまったくない。)

しばらくするとあれが芥川龍之介賞の候補作になったと伝えられた。ぼくは日本の文学状況にはまったく関心がなく、当時の芥川賞の受賞作など何も読んでいなかった。まあ枯れ木も山の賑わいということでぼくのも入れたのだろうくらいに思っていた。そうしたら受賞してしまった。

ぼくはその通知の電話を友人であったデザイナー戸田ツトムの事務所で受けた。事情を告げないまま事務所に行って隅に坐っていたら「池澤さん、電話」と言われて取ったら「おめでとうございます」と言われた。正直、困惑した。そんな準備はなかったのだ。

あの作品を貫く自然観には戸田の影響が濃い。彼はフライ・フィッシングに凝っていて、ぼくも何度も彼と渓流に行っていた。自然に対するあの無私の姿勢が大事なのだ。

だから単行本も文庫も装丁は戸田ツトム。具象を一切避けた瀟洒な表紙で今に及んでいる。

『スティル・ライフ』
(1988年2月 中央公論社/1991年12月 中公文庫)

●内容紹介
ある日、ぼくの前に佐々井が現れてから、ぼくの世界を見る視線は変わっていった。ぼくは彼が語る宇宙や微粒子の話に熱中する。佐々井が消えるように去ったあとも、ぼくは彼を、遥か彼方に光る微少な天体のように感じるのだ……。しなやか感性と端正な成熟が生みだした美しい青春小説。中央公論新人賞・芥川賞、受賞作。