内田 樹(うちだ・たつる)
1950年東京都生まれ。思想家、武道家(合気道7段)、神戸女学院大学名誉教授。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞、執筆活動全般について伊丹十三賞を受賞。
「昔」に対する想像力は年齢とともに広がる
子どもの頃は「自分が生まれる前の時代」は単なる漠然とした時間の広がりに過ぎなかった。昭和前期も大正も明治も幕末もひとしなみに「昔」というカテゴリーに括られていた。それが年を取るとだんだん「昔」が差別化されるようになる。自分が生まれる直前と、生まれる50年前と、生まれる100年前の違いが皮膚感覚的に感じることができるようになる。「昔」の解像度が上がるのである。
それについて個人的な法則を思いついた。個人の感想であって一般性を要求する気はないが、「自分が生まれる前についての想像力の広がりは実年齢に相関する」というものである。わかりにくい言い方で済まない。要するに「10歳の子どもは自分が生まれる10年前まで、20歳の人は自分が生まれる20年前くらいまでの昔については、何となくどんな時代だったか想像がつく」ということである。この法則を適用すると、50歳というのは生年の50年前(私が50歳の時なら1900年、明治33年)についてまでなら、その頃の人がどんなものを食べて、どんな服を着て、どんな家に住んで、どんなことを考えていたのか、何となく想像がつくということである。
明治33年と言えば、義和団事件が勃発し、パリ万博でメトロが開通し、夏目漱石が英国留学に発ち、フロイトが『夢判断』を出版した年である。義和団事件について、私は柴五郎の書いたものを読んだし、チャールトン・ヘストンと伊丹十三が出た『北京の55日』も観た。パリで乗ったメトロの駅の多くはパリ万博時と同じたたずまいを留めていた。ロンドンの漱石の屈託のこともよく知っているし、『夢判断』は学生時代にノートを取りながら読んだ。そうやって書き出すと、50歳の時は生まれる50年前までは「守備範囲」だということになる。