どんな状況でも遅すぎることはない

「もしもがんが治るようなことがあれば、1つだけやりたいことがある」

「……何?」

ベッドの脇に立っていたわたしが尋ねると、彼はこう答えた。

「もう一度、子どもを育てたい」

「は? わたし、もう産めないよ」

わたしがやや狼狽しながら言うと、連合いは言った。

「いや、そうじゃない。親が必要な子どもはたくさんいるだろう。また子どもが育てたい」

あまりにもアウト・オブ・ザ・ブルー、つまり青天の霹靂だったので、わたしは思わず「なんで?」と尋ねた。

「俺、これまでいろんなことをやってきたけど、子どもを育てるのが一番楽しかった」

と連合いは言う。確かにうちの息子はもう16歳だし、それでなくとも分別くさい若年寄みたいな人間なので、わが家ではもう子育ては終わった感が濃厚にある。だが、こんなことを彼が考えていたとは知らなかった。

「おまえは保育士だったし、俺たち、里親になれるんじゃないか」

病院のベッドで上体を起こした連合いは、人差し指で天を指さしながら言った。

「もし、あそこにいるやつが俺をもうちょっと生かしてみようという気になったら、だけど」

「あそこにいるやつ」が何を考えているかは人智の及ばないところだが、人智の及ぶ範囲で人間は助け合うことができる。

「そうなったら、協力するよ」

とわたしは言った。

いくつになっても、どんな状況になっても、遅すぎることはない。人を生かすのはたぶんそのスピリットなのかもしれない。