来る2023年、中公文庫は創刊50周年を迎えます。その記念プレ企画として、本連載では「50歳からのおすすめ本」を著名人の方に伺っていきます。「人生100年時代」において、50歳は折り返し地点。中公文庫も、次の50年へ――。50歳からの新たなスタートを支え、生き方のヒントをくれる一冊とは? 第12回は、哲学研究者の岡本裕一朗さんに伺います。

岡本裕一朗(おかもと・ゆういちろう)

1954年、福岡県生まれ。玉川大学文学部名誉教授。九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了。博士(文学)。九州大学助手、玉川大学教授を経て、2019年より現職。専門は西洋近現代思想。著書に『フランス現代思想史』『いま世界の哲学者が考えていること』『答えのない世界に立ち向かう哲学講座』『アメリカ現代思想の教室』など多数。

遊びこそが、精神の最高の段階

若いとき、19世紀末のドイツ哲学者フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラ』を読んだとき、高らかに語られる「超人」という言葉がよく分からなかった。崇高な理想のようにも思えたり、芝居じみた戯言のようにも感じられたりした。それでも、有名な概念なので、無視することもできず、何となくやり過ごしてきた。

「超人」といえば、強靭な肉体をもった文字通りのスーパーマンをイメージするかもしれない。たしかに、「人間を超える」ことは間違いないが、ニーチェの語る超人はまったく異なっている。超人は子どものように遊ぶからだ。どうして、そう言えるのだろうか。

『ツァラトゥストラ』で、超人を語るとき、ニーチェは精神の三つの変化を示している。最初は「駱駝」、次に「獅子」、最後に「小児」となる。これを人の変化と考えてみよう。まずは駱駝のように重荷に耐え、社会的な義務や道徳に従う。やがて、そうした重圧を払いのけ、獅子のように闘う自由精神となる。しかし、これで終わりではない。この後、子どものように無垢な形で遊ぶことになる。この子どもの活動が、超人のモデルとなっている。

じつは、むかし読んでいたとき、子どもと超人の結びつきがよく理解できなかった。私の勝手なイメージだと、獅子のような批判的で闘争的な精神の方が「超人」に近かった。研究書を読んでも、あまり納得できなかった。

ところが、50歳を超えるころ、はたと思い至ったのである。遊びこそが、精神の最高の段階であることを。そのとき、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』で述べていたことを思い出したのである。彼はこう書いていた。

遊びとは、あるはっきりと定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為もしくは活動である。(…)遊びの目的は行為そのもののなかにある。
(『ホモ・ルーデンス』81ページ)

「遊び」の特徴はいろいろあるが、そのなかで根本をなしているのは、遊びの外に他の目的をもたないことである。つまり、何かのために遊ぶことがない。金儲けのために遊ぶ、友人をつくるために遊ぶなどなど、しばしば理由づけがされる。ところが、ホイジンガによれば、これらの活動は決して遊びではない。遊びには、それ以外の目的がないからである。「遊ぶために遊ぶ」としか言えないのだ。