米軍キャンプで歌う松谷穣さん。音楽仲間には、ゆずる、じょう、とも呼ばれていたという(写真提供◎松谷冬太さん 以下すべて)

いよいよ本日の放送で最終回を迎える朝ドラ『カムカムエヴリバディ』。「ラジオ英会話」「あんこ」とともにこのドラマを彩ったのは戦前戦後の「ジャズ」である。戦後、東京、大阪、横須賀などの米軍キャンプ地には多くのクラブがつくられ、日本人が米軍のためにジャズを演奏していた。ドラマの前半では、戦災孤児の錠一郎に「大月」の名字をつけた「ディッパーマウス・ブルース」のマスター、柳沢定一が店でジャズのレコードをかけ、それを聞いてジャズを覚えるミュージシャンたちの姿が描かれていた。定一は進駐軍のパーティで「On the Sunny Side of the Street」を歌い、その場に幼い錠一郎と、ロバートに誘われた安子が偶然居合わせていたのだった。
その時代、日本のジャズの創成期に深く関わり、後進を育てたジャズ・ピアニストが松谷穣(まつやみのる)だ。1910年に神戸に生まれ、藤山一郎から山口百恵まで、時代を代表する多くの音楽家、歌手、ジャズ・ミュージシャンと交流した半生は、個人史でありながら時代の記録でもある。2023年に完成する「ジャズ・ミュージアムちぐさ」館長であり、「ジャズ喫茶ちぐさ」理事、横浜ジャズ協会会員の筒井之隆氏に、松谷穣について寄稿いただいた。(写真提供◎松谷冬太氏 以下すべて)

鎌倉にジャズの灯がともった日

太平洋戦争が終わって間もなく、相模湾に面した鎌倉市由比ケ浜に一軒のビーチハウスが建った。海水浴客のための施設ではない。駐留米軍の兵士たちがジャズの演奏を楽しみ、ダンスを踊るためのクラブである。名前は「リビエラ」という。日本人の専属バンドが結成され「ムーンライト・セレネーダーズ」と名付けられた。人々の生活は苦しく、食べるものも満足にない。そんな身も心も飢えた時代に、戦争から解放された喜びを爆発させて、鎌倉の街にジャズの灯をともした男がいた。

松谷穣(まつやみのる)である。

「ムーンライト・セレネーダーズ」のバンドマスター。
略してバンマス。
本業はピアニスト。
住まいは由比ケ浜に近い江ノ島電鉄・長谷駅のそばにあった。

鎌倉空襲は、1945年1月9日に始まり、8月15日の終戦日まで数回に及んだが、幸い大きな被害はなかった。松谷は無事に生き延びて終戦を迎えた。35歳の夏だった。