イギリス在住のブレイディみかこさんが『婦人公論』で連載している好評エッセイ「転がる珠玉のように」。Webオリジナルでお送りする23.5回は「味覚は人の記憶を強烈に呼び覚ます」。ブレイディさんが民間経営の保育園で働いていた頃、誕生日に同僚から手作りのマデイラケーキ(イギリスが発祥の伝統的なスポンジケーキ)をもらったそう。その味をいまでも思い出すのは、おいしさだけが理由ではなくて――

「マデイラケーキの思い出」

わたしが「保育士として働いていた頃」と書くとき、慈善団体が経営する長期無職者支援施設内の無料託児所に勤めていた時期(ここでの体験は『子どもたちの階級闘争』という本になっている)と、地方自治体が運営する移民向け英語教室の移動型託児所に勤めていた時期、そして慈善団体とも地方自治体とも関係ないふつうの保育園に勤めていた時期、の3つの時期がある。保育士時代の経験を書くと、すべて『子どもたちの階級闘争』時代の話かと思われてしまいがちだが、実はそうではない。

で、ふつうの民間経営の保育園で働いていた頃の同僚にゲイの若い男性がいた。彼はイングランド北部からブライトンに引っ越してきた人だった。ブライトンは英国のゲイ・キャピタルと言われるほどLGBTQ人口が多く、クラブや洒落たカフェやアートショップが並んでいるLGBTQストリートと呼ばれる通りもある。その若い同僚は、ティーンの頃からブライトンに憧れていて、おおっぴらに同性愛者であることをエンジョイできる街で暮らすことを夢見ていたらしい。

彼はとても料理が上手で、よくケーキやクッキーを焼いてきては、休憩室でみんなにふるまっていた。わたしはマークス&スペンサーというスーパーのマデイラケーキが大好きで、(わたしの知る限りでは)それが英国で買えるマデイラケーキの中では最も日本のカステラに近いからなのだが、そのことを何かの折に職場でしゃべったことがあった。すると彼はそれを覚えていてくれて、「マークス&スペンサーのマデイラケーキを自分で焼いてみた」と言って、わたしの誕生日にきれいにラッピングされた手作りケーキをプレゼントしてくれた。

わたしはさっさとランチタイムに休憩室で包みを開け、箱の中から長方形のマデイラケーキを取り出した。もうカットした瞬間から、それがマークス&スペンサーのケーキの完璧なコピーであることがわかった。ナイフを入れたときのスポンジの湿り気がほかとは違うのである。ボソボソ崩れたり、生地がよれたりせず(なんか化粧品の話をしているみたいだが)、しっとりとまっすぐに美しい断面でカットできるのだ。