優しい彼の生い立ち

そういえば、前に彼は、実家があるのは小さな田舎の村で、ティーンの頃はマッチョな友人たちに囲まれていたから、ケーキを焼いても誰にもそれを見せられなかったし、食べてもらうこともできなかったと言っていた。

わたしは思わずしんみりしてしまったので、

「いくらでも喜んであげるから、これからもがんがん焼いてきな」
と彼の肩を叩きながら言ったのだった。

英国人の女性ばかりの職場で、わたしと彼はいわゆる多様性を担保するスタッフだったので、ほかの人たちにはわからない部分で通じ合えるところがあった。この日にしても、みんなが気を遣って選んでくれたのはわかるのだが、誕生日のプレゼントにチャイナ柄のスカーフとか、招き猫の置物とかもらうより、マデイラケーキのほうが嬉しかったのだ。

そんな昔のことを思い出してしまったのは、マークス&スペンサーでマデイラケーキを買ったら、いつの間にかレシピが変わっていたからである。さらにしっとりと軽くなり、あのとき同僚が焼いてくれたマデイラケーキにいよいよ近づいている。

彼はその後、保育園をやめてロンドンに引っ越していったのだったが、いまごろどうしているだろう。

味覚は人の記憶を強烈に呼び覚ます。これだけはZOOMやスカイプを通した人づきあいでは得られないものだ。