来る2023年、中公文庫は創刊50周年を迎えます。その記念プレ企画として、本連載では「50歳からのおすすめ本」を著名人の方に伺っていきます。「人生100年時代」において、50歳は折り返し地点。中公文庫も、次の50年へ――。50歳からの新たなスタートを支え、生き方のヒントをくれる一冊とは? 第13回は、作家・評論家の関川夏央さんに伺います。

関川夏央(せきかわ・なつお)

1949年新潟県生まれ。上智大学外国語学部中退。『海峡を越えたホームラン』で第7回講談社ノンフィクション賞を、『「坊っちゃん」の時代』(谷口ジローとの共著)で第2回手塚治虫文化賞を、『昭和が明るかった頃』で第19回講談社エッセイ賞を、2001年「明治以降の日本人と、彼らが生きた時代を捉えた幅広い表現活動」により、第4回司馬遼太郎賞を受賞。その他の著書に、『白樺たちの大正』『昭和時代回想』『寝台急行「昭和」行』『子規、最後の八年』『人間晩年図巻』など。

老夫婦の隠居暮らし

文化6年(1809)4月、旧暦ではもう晩春である。江戸・麻布竜土町、明治に歩兵第三連隊の用地となり、第二次大戦後にはアメリカ軍が通信基地として運用するあたりの武家屋敷内に新築された隠居所に、爺さんが一人入ったのはその頃であった。少し遅れて婆さんがやって来て、二人で、いかにも隠居らしく穏やかに、また気楽に暮らし始めた。爺さんは美濃部伊織といって72歳、婆さんはその妻るん、71歳であった。

「この翁媼(おうおん)二人の中の好いことは無類」だが、「隔てのない中(うち)に礼儀があって、夫婦にしては、少し遠慮をし過ぎているようだ」と近隣の人々は噂した。そう鴎外は書いている(森鴎外「じいさんばあさん」)。

爺さんの日常はこんなふうであった。「眼鏡を掛けて本を読む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀剣に打粉(うちこ)を打って拭く。体(たい)を極(き)めて木刀を揮(ふ)る」

婆さんは、ままごとのような家事仕事の隙を見て爺さんの傍(そば)に寄り、「団扇(うちわ)であおぐ」。すると爺さんは「読みさした本を置いて話をし出す。二人はさも楽しそうに話すのである」。

誰もが憧れる、それでいて実際にはなかなかなりがたい老夫婦の落着いた間柄の描写がここにある。

その年の暮、婆さんが十一代将軍家斉の褒賞を受け、銀十枚をくだされた。これはどうしたわけかと、近所の者たちの驚きはひとかたならなかった。