2021年10月から、吉田篤弘さんによるweb書き下ろしの掌編小説連載がスタートしました。

2023年に創刊50周年を迎える〈中公文庫〉発の連載企画です。物語は毎回読み切り。日常を離れ、心にあかりを灯すささやかな物語をお楽しみください

「著者プロフィール」

吉田篤弘 よしだ・あつひろ

1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を続けている。著作に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』『おるもすと』『天使も怪物も眠る夜』『月とコーヒー』『それでも世界は回っている』『屋根裏のチェリー』『ソラシド』など多数

第13話

「マリアの小さな歌」

 十二丁目にある、それはそれは小さな劇場で、今宵もマリアの歌う「小さな歌」の音楽会が開かれていました。マリアは恵まれた大きな体を授かり、子供の頃から、オペラのプリマドンナになることを夢見ていました。その体から、驚くばかりに大きな声を響かせることができたのです。
 音楽の教師が、たまたま同じような体つきをした声楽家で、マリアにその道へ進むよう奨めたのでした。
「わたしのようになりなさい」と。
 しかし、マリアはいま、小さな劇場で、小さな歌を、小さな声で歌っています。決して大きな声ではなく。
 どうしてなのかと申しますと──。

 

       ✻

 

 それは、マリアが二十歳になって間もない頃のことでした。
 毎日、ぼんやりとしていたのです。世界が隅から隅までぼんやりと見え、
(これはきっと、わたしの眼がおかしくなったのだ)
 と眼科医の友人に診てもらいました。
「大丈夫よ、何もおかしなところはないから」
 友人の診断を聞き、
「じゃあ、どうしてこんなにぼんやりしているの?」
 と診察室を見まわすと、
「それはね──」
 友人はきっぱり言いました。
「世界がぼんやりしているわけではないの。ぼんやりしているのは、たぶん、あなたの頭の中。何か心配ごとでもあるんじゃない?」
 そのとおりでした。子供の頃からの計画が順調であったら、マリアはとっくにプリマドンナになって、いまごろ大きな舞台で歌っていたはずです。しかし、そのような機会がめぐってくる予感すらありませんでした。
「あなたは残念ながら声が大きいだけね」
 審査会でそう言われたこともあります。
 マリアは絶望しました。これまでは歌がたすけてくれたのです。誰かの歌声に励まされたのではなく、自分の歌声に勇気づけられていました。