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阿川佐和子さんが『婦人公論』で好評連載中のエッセイ「見上げれば三日月」。ふかわりょうさんが取材で「《さみしさ》への対処法」について問われたという。私自身はいったいどういう「悲しい」状況のときにさみしく感じてきただろうと幼少期の記憶から思い返してみた佐和子さん――。

※本記事は『婦人公論』2022年4月号に掲載されたものです

ラジオで一緒に番組をやっているふかわりょうさんが、あるとき雑誌の取材を受け、「《さみしさ》への対処法」について問われたという。ふかわさんがその記事を読み上げた。

「僕自身は《さみしい》という言葉に置き換えるような心境になることはなくて。精神的に不安定というか、バイオリズムの波は絶えず流れていて、悲観的になることもある。でもそれをさみしいという言葉にしていません。(中略)でも、そういった症状をひっくるめてさみしいというのであれば、僕はめちゃくちゃさみしい人間だと思います」(「@BAILA」より)

言葉への感受性が極めて高いふかわさんらしい答えだ。「ことほどさようにめんどくさい人間なんですよ、僕は」とふかわさんは自嘲気味に記事を披露してくださったのだけれど、私は「めんどくさい」と思うより、「そうか、なるほど……」と思考が刺激された。

いったい自分は「さみしい」という感情をどのように捉え、これまでどう対処してきただろう。そもそも今までの人生において「さみしい」と思ったことが、どんな場面でどれくらいあったのか。

思い起こす前に、「さみしい」と「さびしい」の違いはなんだ? という疑問が湧いた。

調べたところ、「さみしい」は「さびしい」が時代とともに音変化して生まれた言葉であり、意味は変わらないらしい。が、漢字の「寂しい」と「淋しい」には違いがある。

すなわち「寂しい」は、情景的にも感情的にも幅広く「悲しい」「ひっそりしている」「さびれている」といった様子を表すのに対し、「淋しい」は、より感情的な、涙を伴う「悲しみ」を表現するときに使うようだ。

なるほどね。と、ここまで理解したところで私はいったいどういう「悲しい」状況のときにさみしく感じてきただろう。