『婦人公論』2021年7月13日号から連載がはじまった、重松清さんの小説『うつせみ八景』。
発売中の最新号を除く全編を掲載します。

「前回までのあらすじ」

空き家のメンテナンス業に携わる水原孝夫。連休の最終日に妻の美沙と、息子の研造(ケンゾー)が主宰する劇団のショーを訪れる。終了後、美沙は70代の3人組“追っかけセブン”と女子会をすることに。孝夫は俳優として芽が出ない息子と話をしようと呼び出すが、ケンゾーのスマホが鳴って――

「著者プロフィール」

重松清 しげまつ・きよし

1963年岡山県生まれ。99年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、同年『エイジ』で山本周五郎賞、2001年『ビタミンF』で直木賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞、14年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞。近刊に『ひこばえ』『ハレルヤ!』など。20年7月に『ステップ』が映画化された(飯塚健監督・山田孝之主演)

第四景

「ココロの空き部屋を満たすもの(3)」

 緊急事態だった。 
 忍者A──主役を務める団員が、ふくらはぎの肉離れを起こしてしまった。つま先立ちもできないというから、かなりの重症だった。
 ケンゾーは、松葉杖を気ぜわしく振り、一歩ごとに背中を上下させながら、イベント広場へ急ぐ。
 息が荒い。「うぐぐっ!」といううめき声も交じる。体重を受け止める左足だけでなく、宙に浮かせた右足にも、足首から甲まで固めたギプスの重みと振動の負担がかかっているのだろうか。
「おい、だいじょうぶか」
 孝夫が横から声をかけても、返事をしたり目を向けたりする余裕すらなく、ひたすら前へ前へと進む。
「あわてるな、危ないぞ」
 案じるそばから、杖先を地面にうまくつきそこね、つんのめって転びそうになった。
「無理するな、ほんと、ケガするぞ」
「……そんなこと言ってる場合じゃないんだって」
 遊具を巡る通路は家族連れで混み合っていたが、ただならぬ勢いで迫ってくるケンゾーに誰もがぎょっとして道を空けた。モーゼの十戒のように人垣が左右に割れてできた隙間を、ケンゾーは脇目も振らずに通り抜ける。
「どうもすみません、ありがとうございます、お騒がせしました……」
 息子に代わって左右に頭を下げながら、孝夫はケンゾーとは違う種類のもどかしさを感じていた。

 ほんとうは挨拶などではなく、もっとしっかりと役に立ちたいのだ。力になってやりたい。助けてやりたい。ケンゾーがまだ幼い頃なら、おんぶもできたのだが。
 イベント広場に着いた。劇団の連中がいるステージ裏まではあと少しだ。鬼気迫る形相だったケンゾーも、ようやく人心地ついた様子で、足を止めて息を整える。
 そのタイミングを狙って、孝夫は声をかけた。
「なにかできることないか? なんでも言ってくれよ」
「ないないない、だいじょうぶだから」
「遠慮するな」
「してないよ、そんなの」
「なにかあるだろ、せっかくここにいるんだから、なんでもいいんだぞ」
「なんでも、ってさあ……」
 ケンゾーは、まいっちゃうなあ、と苦笑して、噛んで含めるようにゆっくり言った。
「お父さんがバク宙できるんだったら、遠慮せずに頼むけどね」