自分の中の野性を忘れたくないんです。この車で、「いま」という名の、時代の荒野を駆け抜けたくて──。
 孝夫からその台詞を聞かされた美沙は、ぽかんと口を開け、しばらく間を置いたあと、言った。
「ねえ、石神井晃って、有名だけど……バカなの?」
「かもな」
 顔を見合わせると、美沙はプッと噴き出した。「時代の荒野って……」と繰り返すと、ツボにはまってしまったのか、腹を抱えて笑った。
「なんなの、ほんと、なに考えてんのよお……あー、おなか痛い」
 笑いすぎて目尻に溜まった涙を指で拭う。気持ちが紛れてくれて助かった。あのまま喧嘩腰で実家に向かったら、話はますます面倒になってしまうだろう。
「でも、忙しいのよね、あの人。わざわざ横浜の端っこのほうまで来るような時間あるの?」
 それは孝夫も気になっていた。空き家のリノベーションは、確かに石神井がいま最も力を入れているビジネスだが、官庁や自治体の依頼で地域再生に取り組むプロジェクトならともかく、この一軒の仕事にそこまでの重みがあるとは思えない。
 ということは、リノベーションの規模ではなく中身が、石神井にとって重要な意味を持つのか。
 スタッフに任せるのではなく、自ら現地に足を運ぶに価する、あるいは足を運ばなければならないほど難しいリノベーションだというのか。
「兄さんだって、連休中も忙しいから、合鍵を渡すの今日になったわけでしょ?」
 メガバンクで取締役を務める健太郎さんは、ゴルフや冠婚葬祭などで週末も多忙だった。まるまるオフで過ごせるのは、一年のうち三分の一もないという。
「その二人がスケジュールを合わせて、横浜のはずれまで来るだけでも、大変じゃない?」
「……だな」
「だから、今日って、合鍵を渡すのは口実で、相談がメインなんじゃないかなあ。で、相談とはいっても、兄さんのことだから、どうせこっちの意見なんて最初から聞く気なくて、賛成しようと反対しようと、自分のやりたいことをやりたいようにやっちゃうのよ……」
 そのとおりなのだ。
 やはり美沙もよくわかっている。
「ねえ、あなたは、どんな話になると思う?」
「いや、それは……」
 訊かれても困るのだ、ほんとうに。答えられるのは、この一言しかない。
「どっちにしても、ろくな話じゃない、とは思う」
「……だよね」
「車を停めててもアレだから、ちょっと動くか」
「そうね、悪いけど、適当に近所を回ってくれる? その間に、わたしもアタマを冷やすから」
「うん……そのほうがいい」
 静かなエンジン音とともに、車が発進する。省エネの意識というよりエコカー減税に惹かれて、五年前にガソリン車からハイブリッドのステーションワゴンに買い換えた。石神井晃の愛車のように「『いま』という名の、時代の荒野」とやらを駆け抜けるには不向きでも、燃費はいいし、小回りは利くし、車内の静粛性もたいしたものなのだ。
 それでいいじゃないか、免許を取って四十年、無事故無違反のゴールド免許をナメるなよ……と、石神井ではない、もっと大きな、誰とは決められない存在に啖呵を切りたくなった。