2021年10月から、吉田篤弘さんによるweb書き下ろしの掌編小説連載がスタートしました。

2023年に創刊50周年を迎える〈中公文庫〉発の連載企画です。物語は毎回読み切り。日常を離れ、心にあかりを灯すささやかな物語をお楽しみください

「著者プロフィール」

吉田篤弘 よしだ・あつひろ

1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を続けている。著作に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』『おるもすと』『天使も怪物も眠る夜』『月とコーヒー』『それでも世界は回っている』『屋根裏のチェリー』『ソラシド』など多数

第15話

「水色のリボン」

 右手にもうひとつ力が入らないのは、子供の頃から変わりません。
 もしかして、難しい病気になってしまったのではないか、と母は心配していましたが、六人の医者に診てもらって、六人とも、「原因不明」とカルテに記しました。
 でも、わたしには原因が分かっていたのです。医者にも母にも言いませんでしたが、ある日、夢の中に天使があらわれたのでした。
「ねぇ、そこの女の子。アタシは、ほら、空の上から降りてきたから、地上のものに触れることは出来ないの。そういう決まりなのよ」
 天使はそう言いました。
「でも、それはとてもとても残念なこと。地上はすごくすごく魅力的なものがいっぱいで、あっちにもこっちにも手で触れてみたいものばかり。なので──いい?──あなたのその右手をアタシにくれない? あなたの右手をいただいて、それで、この世界のすべてに触れてみたいの。そのかわり、あなたが楽しい一生を送れるよう約束するから」
 わたしはあまり悩みませんでした。
「分かったわ。どうぞ、わたしの右手を差し上げます」
 そう答えたところで目が覚めました。
 まだ夢の余韻から抜け出せず、「しまった」と後悔しかけていたのですが、わたしの右手はなにひとつ変わらずそこにありました。
「そうよね──夢だもの」
 しばらくのあいだ、安堵の思いと、少しばかり残念な思いを行ったり来たりしていたのですが、ある日、運動靴のひもを結ぼうとしたとき、右手に力が入らないことに気がつきました。
 まったく力が入らなかったわけではありません。右手でスプーンを握り、牛乳をかけたコーンフレークを食べるときは問題ありませんでした。鉛筆を握って文字を書くこともできました。でも、靴ひもをしっかり結ぼうとしたとき、思うように力が入らなかったのです。