作家の試みを読み解く楽しみ
これらの紀行文は、いずれも芥川らしく、長編としては書かれていない。まるでエッセイのような趣である。例えば1918年7月22日、29日に『大阪毎日新聞』に書いた「京都日記」では、宿が分からず戸惑っている車夫の様子を書きながら、京都の街に多い竹藪について描写している。その竹藪についての芥川の筆が感動させる。
「不思議に京都の竹は、少しも剛健な気がしない。如何にも町慣れた、やさしい竹だと云う気がする」
などの表現は、高齢に差しかかる世代にはよくわかる実感なのである。
芥川には、中国を新聞社の海外視察員として見て回った紀行文もある。これは『支那游記』として一冊にまとめられている(前掲『芥川竜之介紀行文集』にも収録)。この紀行文は文体の上でも幾つかの新しい試みを行なっている。そうした試みを読み解くのも読書の楽しみであろう。
芥川は日本語の流れを時代の中で受け止め、それをさらに自らの感性と才能によって独自の文体として作り上げる途次だったのであろう。その志の半ばで死を選んだのは、時代を予兆していたのだろうか。暴力に憎悪を持っていたこの作家は、明らかに軍事の暴力とロシア革命以後の左派の革命暴力を予感し、そして恐怖を味わっていたのだと思う。
老いると、それが理解できるのだ。
『芥川竜之介紀行文集』山田俊治編(岩波文庫)
芥川の国内旅行記と中国紀行を収録した一冊。1921年、「大阪毎日新聞」視察員として中国(上海、杭州、南京、北京など)を訪れた芥川は、それまでの伝統的な中国像にとらわれることなく、現地の実情や対日観を冷静に見つめ、紀行文として新たな方法を試みた。芥川の作品中でも特異な文学ルポルタージュ。詳細な注解付き。