
2021年10月から、吉田篤弘さんによるweb書き下ろしの掌編小説連載がスタートしました。
2023年に創刊50周年を迎える〈中公文庫〉発の連載企画です。物語は毎回読み切り。日常を離れ、心にあかりを灯すささやかな物語をお楽しみください
「著者プロフィール」
吉田篤弘 よしだ・あつひろ
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を続けている。著作に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』『おるもすと』『天使も怪物も眠る夜』『月とコーヒー』『それでも世界は回っている』『屋根裏のチェリー』『ソラシド』など多数
第16話
「合奏」
丸みを帯びた金属のなめらかさがよみがえります──。
しかし、アダムはあの男がなんという名前であったか覚えていません。記憶力が確かなアダムの父であれば、きっと覚えていたでしょう。
でも、父も母も、もういないのです。
アダムは一人で暮らしていました。彼のその名を呼ぶ者も、もうおりません。彼の家は、辺境の地──どこからも遠いところにあり、そこに子供の頃から住みついて、両親がのこした家屋と遺産を引き継いでいました。
「ようするに、あの人は余生を送っているわけだ」
「そう言われてから、もうずいぶん経つけれど」
「長い余生だね」
「いや、結構なことじゃないか」
酒場では、そのような噂話が交わされていました。その酒場からアダムの家まで、徒歩で半日はかかるでしょうか。ですから、彼は酒場へ出向いたことはありません。酒場にたむろする男たちにしても、およそ、アダムの家の近辺へ赴いた者はいませんでした。
ただ一人、郵便配達員の青年だけが、アダムの家へ郵便物を届けていました。といっても、届けるのは定期購読の通販雑誌で、葉書や封書の類は、ほとんど見られません。
「あのあたりは、本当に何もないんです」
青年が言いました。
「そんなところで、どうやって暮らしているんだろう?」
男たちの一人が首をかしげると、
「ご自分で野菜や果物を育てて収穫しているようでした。たまに、肉や魚をお届けすることもありますが──」
青年の話に、
「しかし、一人で畑を耕すのは、そろそろ年齢的にきついんじゃないか」
男たちは自らを省みて、ため息をつきました。
「そういえば──」
青年が眉を上げました。
「このあいだ、妙なものを届けたんです」