『婦人公論』2021年7月13日号から連載がはじまった、重松清さんの小説『うつせみ八景』。
発売中の最新号を除く全編を掲載します。

「前回までのあらすじ」

水原孝夫は空き家のメンテナンス業に携わる。ある日、妻・美沙の兄・一ノ瀬健太郎から「実家の今後について相談がある」と打診が。気鋭の空間リノベーター・石神井晃の関与を知り悪い予感も。当日、実家で水原夫妻を出迎えたのは、先日まで孝夫に同行取材をしていた記者の西条真知子(マッチ)だった

「著者プロフィール」

重松清 しげまつ・きよし

1963年岡山県生まれ。99年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、同年『エイジ』で山本周五郎賞、2001年『ビタミンF』で直木賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞、14年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞。近刊に『ひこばえ』『ハレルヤ!』など。20年7月に『ステップ』が映画化された(飯塚健監督・山田孝之主演)

第五景

「空き家には悪役(ヒール)がよく似合う?(2)」

 なんで、きみがここに──。
 動揺が大きすぎて、声も出なかった。
 一方、マッチに驚いた様子はない。美沙の目を盗んで素早く口の前で指を立て、ナイショですよ、のサインを孝夫に送ってから、ふふっと笑う。サプライズ大成功、といったところなのだろうか。
 マッチの案内でリビングに通された。石神井晃はソファーから立ち上がって孝夫と美沙を迎えたが、健太郎さんは座ったままお茶を啜り、部屋に入ってきた二人を一瞥しただけで、また湯呑みを口に運ぶ。
「本日は、妹さまご夫妻にまでご足労いただいて、申し訳ありません」
 石神井は愛想笑いを浮かべて名刺を差し出した。細かい情報をQRコードにまとめたデザインは、いかにも「いま」ふうのお洒落なものだった。縦書き明朝体、会社のロゴが型押しで入ったタマエスの名刺とは、なんというか、目指すものが違うのだろう。
 うっすらとクリーム色がかった名刺の紙も、思いっきり「いま」──バナナの茎からとった繊維でつくったものらしい。こちらが訊いてもいないのに教えてくれた。
「バナナはアフリカのザンビアでオーガニック栽培されたもので、もちろん現地の人たちにもしっかりと報酬が渡るようにしてあります。実も甘くて美味いし、いままでは捨てるしかなかった茎も、日本の和紙の技術を組み合わせると、こんな紙になるんです。オーガニックで、フェアトレードで、SDGs……ご存じのとおり、持続可能な開発目標、その十七の目標すべてにつながるわけです。地球にも人にも優しいんですよ」
 したり顔で言う。「ご存じのとおり」の一言がなんともイヤミだし、あんな燃費の悪そうなゴツい車を乗り回しながら「地球に優しい」もあるまい。だが、マッチ登場の動揺からまだ立ち直れない孝夫は「はあ、なるほど……」と気勢の上がらない相槌を打つしかなかった。
「ああ、それと、ウチのオフィスの新人スタッフです」
 石神井は脇に控えるマッチを紹介した。「まだ見習いなんですが、現場で早く仕事を覚えさせたくて連れて来ました。議事録といいますか、書記役をやらせますので、よろしくお願いします」
 マッチは肩をすぼめ、緊張しきって声もろくに出せずに挨拶をした。孝夫の目には嘘くさいお芝居でも、マッチとは初対面の美沙は、あっさり引っかかって、だからこそ──。
「スタッフさんも来るなんて、聞いてませんけど」
 マッチがダイニングテーブルに移ったあと、小声で石神井に抗議した。
「あと、さっきウチの前を通ったんですけど、業者さんも来てたみたいですね」
「はい、ええ、そうです」
「そういうのを無断でやられると、正直言って、気分がよくないです」
「いえ、無断というわけではなくて」
 石神井の言葉を引き取って、健太郎さんが「俺が話を聞いてる」と言った。よく通るバリトンの声には、その響きだけで有無を言わせない迫力がある。
「そうなんです、一ノ瀬さまからはお許しをいただいているので、妹さまご夫妻にも、どうか、ひとつ」
 慇懃な言葉遣いではあっても、「一ノ瀬さま」と「妹さま」のところに、企みが覗く。あくまでもこの仕事のクライアント、すなわち空き家の主は健太郎さんであり、美沙は妹にすぎない、と釘を刺しているのだろう。
「……まあ、いいですけど」
 とりあえず引き下がったものの、今度はお茶でひと揉めしてしまった。ソファーセットのテーブルには、健太郎さんが飲んでいるお茶の急須がある。ポットもある。ところが、石神井に「お茶をお出しして」と言われたマッチがキッチンから持ってきたのは、石神井が飲んでいるのと同じペットボトルのお茶だったのだ。