好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

「仕事で宇多田さんの「光」の歌詞を見ていたら「今時約束なんて 不安にさせるだけかな 願いを口にしたいだけさ」という言葉があって、コロナで舞台が度々中止になりチケットが消えていくことと重ねてしまった。公演ができるかどうか不安定な今だけど、チケットは一つ一つが「願い」なんだと思います。」

 楽しみにしていた公演の中止が決まったときに書いたツイートだった。

 公演が中止になるとショックだしとにかく舞台に立っている人たちが心配になる。自分は趣味として見に行くだけだから残念だ悲しい……という気持ちだけれど、出演者の方の、自分の出ている舞台が止まることや止まるかもしれないという状況で公演しつづける苦しさについては私には想像することすら難しい。それでも笑顔でいてえらいなぁと映像や舞台を見て思いながら、そんなふうに強くあることを求めているつもりはなかった、とも思うし、こうやっていろんなことを察しようとしてしまう私は、ただ自分が不安なだけかもしれないなぁ……と急に落ち込んだりもする。舞台に立っている姿を生で見ているからこそ、なんとなくその人のことを知っているつもりでいるが、私は全く彼女たちのことを知らないのだし、こんなときは彼女たちの気持ちを第一に考えたいと思いながらも、語られることのない心の内を勝手に想像して、思いを馳せたりなんてどうやってもできないし、したくないよ……とも思うのだった。その人たちがどう思っていようが、それが全てで、せめてそのときの気持ちが否定されたりすることがないといいなと思う、そう思うしかないのだ。具体的にそれがどんな気持ちなのかなんて、私が知らなくても想像しなくてもよくて、ただその人の気持ちが、誰にも邪魔されず大事にできる時間があればいい。前向きでも後ろ向きでも、どんな形でも。けれど一方で、こういうときとてつもなく遠い存在だからこそ自分にできることなんてほとんど何もなく、何もないからこそ、その人の考えていることや気持ちと全く違うことを考えてしまうことが怖くて、的外れな祈りをしてしまうことだけは避けたくて、せめて、できるだけ正確に気持ちを汲み取りたいと思ってしまう。彼女たちにとってこれ以上いやなことが起きてほしくないからこそ間違えたくないのだけれど、間違えるも正しいもないところに自分がいることを、私は不安なあまり、つい忘れてしまうんだろうなぁ。勝手に想像した「彼女たちの想い」を汲んで、強い人たちだとか、がんばらなくていいとか、きっとしんどいはずだとか思ってしまうとき、私は自分の弱さにうんざりしてしまう。何もわからないことに対してせめて、強くありたい。応援したいと思うなら、そういう強さを持ちたい。それでも、やっぱり、何もわからないままでいることは、本当にとても難しいなって最近ずっと思っている。

(イラスト◎北澤平祐)