ふとした拍子に、悲しかったり、途方もなく辛いことが幕の向こうで起きているんだろうなとわかってしまうことはある。そしてたまに、自分の思いの一部を公で話してくれる人もいる。そうやって知ることのある彼女たちの気持ちを、私はそのままで受け止めておきたい。彼女たちは「存在」そのものが作品のタレントさんであるけれど、彼女たちの心は彼女たちのものだし、少しでも見えた感情の片鱗を拾い集めて、ふくらませていくことは、とても危なっかしいというか、なんだか……ひたすらに辛いことだって思うから。けれど、「好き」と思うときの、常に幸せでいてくれという願いはあり、それが叶っていなさそうだと思うときの、「好き」の行き場のなさ、幸せを願うその延長線上で、せめて苦しさを減らしてあげたいと考えてしまうときの強い強い「心配」は、どうやっても「どんなことを今悩んでいるだろう」「どんなことで今苦しんでいるんだろうか」という考えを生んで、具体的に何を祈ればいいのか彼女たちの言動から読み取ろうとしすぎてしまう。私はそういうとき、自分の「好き」そのものがとても図々しいというか、乱暴な気持ちに思えて、それさえも嫌になりそうで、そのことが一番、恐ろしかった。

(逆に言えば、ただ幸せを願うことは踏み込まなくても思いやれる唯一のことなのかもしれないし、目に見える苦境がさほどなく、幸せだけを願えるのはそれ自体がとても幸せなことだと思う。)

 彼女たちのためにと言葉を選びたくなるし、考えていきたくなるし、でも私は彼女たちのためにと言えるほど近くにはいないし。私は私のために彼女たちが好きなのだから、いつだって、私は私の気持ちしか知らず、そして私は多分、そのことに心もとなさを感じていて、だから、彼女たちを大切にしたい、消費したくないと強く願っている。私は私のために彼女たちの舞台を見にいくし、好きな人たちの舞台を見れて幸せな気持ちになれる。彼女たちのために何もできていないし、私はずっと一方通行的に幸せをもらっていて、でも、「好き」っていう気持ちがある。この「好き」は自分が幸福になっているだけじゃ何一つ叶っていなくて、彼女たちの幸福こそ願ってしまうものだ。抽象的にふんわりとした意味で「幸せでいてほしい」と願っていられるならともかく、具体的な問題が多く起きている今のような時期は、その願いも少しずつ色を変えてしまう。何ができるだろう、何を祈るべきだろう、苦しい日々の終わりが見えないからこそ、できるだけ「本当に彼女たちのためになること」を願いたくなってしまう。相手の幸福を祈れることはとても大切なことだけれど、とても遠くから祈るにはあまりにも状況が悪化しているとき、私は自分が踏み込んではならないところまでつい(想像で)駆け出したくなってしまう。

 それでも、「好き」そのものが傲慢な気持ちだとは思うべきではない、と思うのです。たとえその身勝手な想像の根っこにあるのが「好きだから」という気持ちであるとしても。「好き」であることは何も悪くなくて、私はただ強くなりたい。好きという気持ちを好きという気持ちのままにしておくために、わからない彼女たちの気持ちをわからないままで応援できるようになりたいから、私は強くなりたいのです。