目線がくると嬉しいね!という話をするとき、なんかそれってどういう意味なんだろうって自分でもわからなくなることがあるし、それが第一の目的だみたいには思いたくないし思われたくもない……と意地になって、結局その話自体やめてしまうこともある。好きな人をオペラで見ているんだから、そりゃその人がオペラを見つけて、意図的に目線をくれたらすごいことだなって思うし嬉しいけど、それはファンとして気持ちが伝わったかんじがして嬉しいというだけでなく、もっと別の何かでもあるような気がして、そこが取りこぼされていくようで怖くなるのです。だって好きは好きでも、「好かれたい」は無い好きであるような気がするし。ここにあるのは「肯定されたい」とか「好かれたい」とか、そういうものから解放された「好き」だと思うから。だって、一方通行だなぁと遠い席からオペラでじっと見てるときは必ず思う。相手にバレないまま相手を見ようとして、それに成功していて。でもそういうふうに「好き」と思えることが楽だって思ってしまう。相手が自分をどう思うかを最初から求めていないし、そこを考えなくていいから気楽でもあるし、どこかで、こちらを見る演者さんがかなり軽い気持ちで客席を見ていたらいいなって考えたりもしている。何かを肯定するためとか、ファンに応えるためとか、そういうアンサー的な意味でなくて、ただ同じ空間を共有してるからこそ起こる自然なこととして「目が合う」があるといいなぁって。舞台を愛することの延長線上でそれを受け止めて、喜べたらなって思う。技術としてお客さんと目を合わせることを意識しない人はきっといないんだろうけれど(そしてそれはすごいことだと思うけど)、そうやって意識して生まれた視線が、舞台と客席の間にある境界を超越する瞬間を作る気が私はしている。ファンとしてすごく嬉しいことで、でも舞台という空間でないとない嬉しさだって思う。多分その理由はこの越境に詰まっているって思うんです。

 お芝居の中で目が不意に合うとき、演者さんにとっての「今日の舞台の刹那」を一緒に感じ取らせてもらえたって感じる。いつも、舞台の上の人たちはこのお話やショーをどんな鮮度で見ているのだろうと思う。客席じゃわからない鮮烈さがきっとあって、それが、目が合ったとき突然こちらにも伝わってくる。客席にいたって十分に鮮烈なものがそこにはあるけど、でもあまりにも舞台は別世界だから、自分と同じくらい「今」「生きている」ものだってことをそのまま受け止めるのは難しい。リアルとフィクションの間くらいにあったものが、目線がきた瞬間、ライブ感を纏って、急にこちらにやってくる感じだ。

 コミュニケーションなんだろうな、私もその人も生きているということをこんなに確信できる瞬間ってなく、そんなとき、舞台は本当に「生きている」んだなって思う。