それは単なるファンとタレントの関係における「コミュニケーション」ではなくて、もっと、原始的なもの。日常生活でも、人と人が向き合っているだけじゃ、互いに相手が「生きている」ってことを完全に実感するのは結構難しい。でも一瞬の呼吸の速度や、目の光や、指や視線の動きで、ああこの人は自分と同じように生きているんだって突然わかることがある。お芝居はこの「生きている」が伝わる瞬間を、役のものとして身に下ろして、そのきらめきを届けていくことなんじゃないかって思うんです。どんな情報や設定の開示でもなく、その人の存在そのものが表現できる「役の存在」。生きている人が演じることで作られる舞台の醍醐味ってきっとここにある。私が舞台を好きなのも、きっとここにある。「生きている」ということ。そしてそれを受け取る観客も生きている。生きていなきゃこれらを受け取ることはきっとできないだろうって思う。

 流動的で、どんなに繰り返し公演しても消えることのないこのライブ感が私は好きです。そこにいる人しか、そこにいる別の誰かの持つ情報量の多さに本当の意味で圧倒されることはないのかもしれない。

 観客に出される前に舞台は確かに完成していて、「作品」を構成する要素というのはそこで揃うはずなのに、受け取っているのは脚本や演出や役者の演技プランだけではなく、そのときにその人が「いた」という実感も、大きく大きく含まれて見える。ここにいる、自分も同じ場所にいる、自分だけの視界で舞台を区切って、選んだ場所に焦点を合わせて見ている。そうやって自分の中でその人の「いる」を、生身で向き合っていくことで受け止めていく。すごく客のエゴが混ざることだけれど、でもそうやってエゴが混ざった形でやっと観客にとっての「舞台」は完成するのだろうなって思う。