松田哲夫(まつだ・てつお)
編集者。1947年東京生まれ。東京都立大学中退。70年、筑摩書房に入社、書籍編集者として400冊以上の本を編集。『ちくま文学の森』『ちくま日本文学全集』「ちくま文庫」「ちくまプリマー新書」などを創刊。現在、筑摩書房顧問。また、96年からTBS系テレビ「王様のブランチ」のコメンテーターとして、長きにわたって新刊・話題作の紹介につとめた。(写真提供・読売新聞社)
素数、虚数、約数、階乗……愛しい小動物のような存在
ぼくが最初にこの小説と出会ったのは、2003年5月のことでした。純文学の雑誌「新潮」に発表されていました。
これは、瀬戸内海に面した小さな町に住む老数学博士と、その家で働く派遣の家政婦さん、そしてその息子の3人が織りなす日常を描いた、世にも美しい愛の物語です。
博士は、交通事故の後遺症で80分しか記憶を保つことができません。そういう博士に、最初はとまどっていた家政婦さんですが、しだいにうちとけてゆきます。
素数、虚数、約数、階乗、自然数、三角数、双子素数、友愛数……無味乾燥なものと思っていた数字や数式がぬくもりや息づかいを感じさせる愛しい小動物のように思えてくるのでした。
「4Bの鉛筆から生まれる式はいつも質素なのに、その意味するところはあまりにも広大だ」
博士の言葉に耳を傾けてみましょう。
「直感は大事だ。カワセミが一瞬光る背びれに反応して、川面へ急降下するように、直感で数字をつかむんだ」
「正解を得た時に感じるのは、喜びや解放ではなく、静けさなのだった。あるべきものがあるべき場所に納まり、一切手を加えたり、削ったりする余地などなく、昔からずっと変わらずそうであったかのような、そしてこれからも永遠にそうであり続ける確信に満ちた状態。博士はそれを愛していた」
「物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目には見えないのだ。数学はその姿を解明し、表現することができる。なにものもそれを邪魔できない」
ぼくたち読者も、いつの間にか、それまでは避けて通っていた数の世界が輝いて見えるようになりました。
物語は、博士と家政婦さんの世界に少年ルートが加わり、阪神タイガースや江夏のエピソードが登場してきて、ますます彩りを増してゆきます。
終盤にいたると爽やかな涙が滲んできて、素晴らしいエンディングを迎えることができました。ちなみにこの作品は読売文学賞を受賞し、エンタテインメント作品が主流となる本屋大賞の第1回の大賞に選ばれています。