余生の不安を前にした、ぼくの決心
ぼくが、この小説を読んだのは、56歳の時でした。それまでは、好奇心のおもむくまま、我武者羅に前に進んできたのですが、そういう日々にも終りがきていました。
それまでに積み重ねてきたもので、充分余生を過ごしていけるとは思っていました。徒手空拳、荒海に漕ぎ出すわけではないのですが、どこか不安がつきまとっていました。
考えてみれば、ぼくには、決定的な危機に陥った時に心の支えになるものが、何もないのです。とりわけこれといった信仰も宗教もありません。いまのように、既存の制度、価値観、思想などが壊れてゆき混乱をひきおこしている時代に生きていると、何の支えも持っていないことに不安を感じています。
そういう不安に遭遇していたぼくは、『博士の愛した数式』を読んで、「よし、これからは数の世界を信じていこう」と決心した。
ぼくごとき者は、何度生まれ変わっても手の届かないものですが、人類が出現した時よりずっと昔から、宇宙が始まるはるか以前から、確固として存在していた数の世界だからこそ、この不確かな世の中を生きていく支えとなってくれるのだと思ったのです。
『博士の愛した数式』小川洋子 著(新潮文庫、2005年)
《僕の記憶は80分しかもたない》博士の背広の袖には、そう書かれた古びたメモが留められていた──記憶力を失った博士にとって、私は常に“新しい”家政婦。博士は“初対面”の私に、靴のサイズや誕生日を尋ねた。数字が博士の言葉だった。やがて私の10歳の息子が加わり、ぎこちない日々は驚きと歓びに満ちたものに変わった。あまりに悲しく暖かい、奇跡の愛の物語。第1回本屋大賞受賞。